手足の運動習慣

 歩くこと、走ることからずいぶん(といっても1ヶ月ほど)遠ざかっていたので、連休を機に、まずはリハビリがてら歩いてみた。6月末まで続けていたランニングは、夏の始まりだったり雨だったり(今年は特に休日と雨がよく重なった)に妨害されて途絶えており、身体を動かしたい思いだけがくすぶっていたのだった。

 

 くすぶるといっても、そんな思いは日に日に疲労に上塗りされ、休日はその回復に充てることになる。そうしているうちに、身体を動かしたいのに動かせていない罪悪感は薄らいで、そのまま運動して疲れるのを避け、気づけば身体を動かすことが億劫になってしまう。

 

 あまりにも自然な負の連鎖は、仕事上不可避ではあるけれど、長く続いた運動の習慣を、過去のものにはしたくない。

 そう思って歩いた結果、いつも走ったり歩いたりしているときに考えるのに、その習慣がおろそかになると消えてしまう思いを言葉にしておこうと思い立った。

 

 それは、書くことと歩くこと(走ること)の相関についてである。

 走ること(ランニング)からは遠ざかっても、書くこと(手書き)の習慣は続いている。思ったこと、考えたことを書き連ねる行為は、思考の可視化を手段として、筆記具の書き味を愉しむという目的を果たすために行われる。一見すると違和感を覚えるだろうが、これは文具沼に沈んだ人間の、倒錯した欲望の表出である。

 

 良いことも悪いことも混ざり合い、時系列も因果もねじれて渦巻く頭の中を、ペンを握り、手を動かすという運動によって表面化していく。関連性も脈絡もない箇条書きや殴り書きでも、手を動かして書き心地を味わう時間によって、それは救いのひとときになる。暗く底知れぬ混沌も、文字になってその姿を現せば、秩序立てて整えるための糸口が見つかる。書く悦びが、翌日歩みうる道をぼんやりと照らし出すのである。

 

 この、書くことによって混沌から秩序へと移行するすっきりとした感覚が、歩くこと(あるいは走ること)にも見出せる。

 

 しかしながら、歩く(走る)という行為のみに集中したときの、頭の中がクリアになっていく感覚は、書くことによるそれとは似て非なるものである。

 椅子の上で思いつくことを思いつくままに書き出す閉鎖的な空間での行為とは異なり、外の空気を吸って歩く(走る)ことは、混沌とした思考を篩(ふるい)にかけるような行為と言えるかもしれない。一般的な言い方をすればそれは、「雑念を払う」ことだとも言える。

 

 形も大きさも様々な感情や思考のうち、今の自分が向き合うべきもの、今の自分に必要なものを見極め、アウトプットするために、思いを篩にかけるのである。腕を振り、踏み出す一歩が篩をたたく手のように働き、歩を進めるごとに、些末な思いはこぼれ落ちていく。そうして残ったものの中から、形の良いものを選び出し、拾って磨いてみる。

 そんなふうに磨き上げた思考が、言葉になり、文章として仕上げられることで、それがきちんと他者へと届く、そんな気がしている。

 

 もちろん、身体を動かすだけでは、思考を秩序立てて頭の中に並べただけにすぎない。それを目に見える状態にするには、真っ白な紙に一つひとつ書き出す行為が不可欠である。角ばったものを磨く紙やすりに目の粗さ・細かさがあるように、思考を言葉として磨き上げることにも、適切な順序があるのだろう。

 

 雑味を雑味として、混沌をそのまま表現することの美しさも説かれることはあるが、瑕一つない宝石を磨き上げる技量を、個人的には追い求めていきたい。文章を書くことは頭を使う行為なのかもしれないけれど、頭だけでできるものでもないと思っている。こころとからだ、精神と身体の相即関係に思いを馳せながら、書くという行為とともに、適度な運動を辞めずにいたいと思う。