はるかなる水無月

 悠長という言葉には「~なこと言っていられない(言っている場合ではない)」と後に否定的な表現が来がちで、それがむしろ一般的ですらある。検索をしてみても、「急を要するにもかかわらず」という状況において使われるものだと明記されているケースがあった。
 
 変化の目まぐるしい現代社会を生きることは、つねに何かに急き立てられ、(それが緩やかであったとしても)何かが差し迫った状態が持続していることと同義である。明日までにやること、1週間後に終わっておくべきこと、1ヶ月後に迫る予定、1年先を見据えた目標――こんなことは多くの人間が述べていることだが、そこに現在の充足という視点は存在しない。それなのに、先のことばかり考えておきながら、自分自身が死に向かいつつある存在だということはきれいに忘れて生きている。何かに急き立てられて焦るのは、死ぬまでの時間が有限だからこそだ、とそんなふうに言える人間は少なく、「今がいちばん若いのだから」という言葉も聞き流して、とりあえず差し迫ったことに向き合い続ける。
 
 それが日常となった現代において、悠長なことを言ってよい場面や、悠長に過ごしていられる場合というのはどういう状況を言うのか。それは論理的に言ってしまえば、非日常の時間を過ごすひとときにほかならない。気忙しい日常を離れて、今この瞬間に向かい合う時間。楽しさや嬉しさといった幸福感を覚える時間に対して、人は過ぎ去ってほしくないと思い、この時間がずっと続けばいいのにと願う(ゲーテも『ファウスト』で言っている)。
 
 だから「悠長なことを言う」とはすなわち、時間の有限性を離れて悠久を求めることなのかもしれない(悠々自適な暮らしとはまさにそういう生活を指す)。
 そして、そんなふうに悠遠な時間を願うひとときは、たとえば美味しいものを食べているときだったり、夢中で写真を撮っているときだったり、欲しかったボールペンを眺めているときだったりする。
 
 
 3月以来二度目となる、杢軸の筆記具を製作する某工房の販売会in梅田。その抽選に無事選んでいただき、25日に行くことができた(以前、異様にアクセス数が伸びたので、今回は意図的に名前を伏せている。本来隠すつもりはなく、戦利品の樹種でわかりきってしまうとは思うが、検索除けということでご了承ください)。下半期に関西での販売がなさそうということで、短いスパンではあるが覚悟を決め応募した。
 
 やや早い時間に呼んでいただけたこともあり、希少な樹種がぎりぎり残っていた幸運に歓びを噛みしめながら、予定していた2本に加えて贅沢ながらもう1本、と選ぶその時間が何とも幸せで、名残惜しかった。ペンを選ぶ20分というのは、わかっていても短く、あっという間に過ぎていく。戦利品は次の3本である。
 
①デザートアイアンウッドこぶ杢 ルーチェペン
 3月の神戸には出品がなく、硬く光沢があって、つるりとした手触りと、砂漠を感じさせる黄色がかった色彩の中に無数の杢が渦巻く1本。アメリカのアリゾナ砂漠で石化する過程の木であり、長い長い時間が詰まっている素材がペンの形になって手元に具現化していることに、どうしようもなくロマンを感じる。工芸品とはそんなふうに、人間の生きる時間とは異なる時間を感じさせるものなのだと思う。書き味や使用感は、結局ジェットストリームの0.7mmが圧倒的で、仕事において求めている書きやすさと書き味の両立が、理想的な状態でできてしまっている、そんなペンだと思う。
 
②ローズウッドこぶ杢 シャープペンシル
 3月にラスト1本だったルーチェペンを購入し、今回はラスト1本だったシャープペンシルを購入できることになった。この3ヶ月で最も使用したのがこのローズウッドこぶのルーチェペンだったが、それをもっと上回る杢が欲しいと贅沢ながら思ってしまい、幸運な巡り合わせによって、今回購入が実現した。手元にあるルーチェペンよりも杢の濃淡が細かく、複雑なうねりとグラデーションに、視線が呑み込まれていく。見慣れるまでまともに使える気がしないほど、今のところ使うより見惚れている時間のほうが長いペンである。ペンシルのレギュラーは黒柿孔雀杢が不動だったが、うまくローテーションしながら使っていきたいと思う。また、控えに甘んじていた花梨のこぶ杢に関しても、それを活かすのにぴったりな方法があったので、それぞれのペンにとって幸せな形で、その経年変化を見守りたいと思っている。
 
③サテンウッドバナバ ルーチェペン
 もともとは、クスノキのこぶであるマーブルウッドが欲しかったのだけれど、今回の出品はなくて、くるみか、クラロウォールナットか、欅のこぶか、それともサテンウッドバナバかで悩んだ。光沢のあるデザートアイアンウッドとは対照的に、くすんだ中に落ち着いた光を放つ渋い魅力のあるペンである。さらさらとした落ち着いた手触りは、鑑賞用にとどめておくにはあまりにももったいないので、0.5mmのジェットストリームを装備することにした。手帳に細かく予定を書き入れるときなど、小さなスペースに丁寧な文字を書くのに大活躍しそうで嬉しい。活躍の場面もまさに渋くて、その容貌に相応しいと思う(もちろんときどき0.7mmも入れて、スタメンとして使う場面も楽しみたい)。
 
 と、結局ペンについて語るとずいぶんな文字数を費やすことになり、悠長なことを書き連ねてしまったと改めて考える。
 けれど、好きなペン、愛着の湧いたペンを片手にものを考え、紙に向き合う時間は、そこでしたためる内容が過去であろうと未来であろうと、書くという一点において紛れもなく現在との対面であり充足であると言える。何を買おうか、どこに行こうか、どんなものを食べようかなど、未来への期待を膨らませる一方で、それをノートに書き込むその瞬間もまた、何とも言いようのない幸福を感じられる瞬間である。至福の書き味に身を委ねれば、時間は高級なチョコレートを食べるように溶けていく(過ぎ去るでも流れるでもなく、溶けるが正しい)。筆跡の余韻に浸りながら、ペンの甘み、ではなく重みをなんとなく味わい、眺めてはまた書き出す。書くという行為をいとおしむその熱量は、筆記具沼にはまってから今なおずっと変わらない(そして、物質的な熱量(カロリー)とは異なり、書き続けても太らないのが良い)。
 
 こうして欲しかったものを手にする歓びを綴ることはもちろんだけれど、当日を迎えるまでの時間も楽しかった。過ぎ去ったぶんの時間の長さが、至福の一瞬を刻む歯車になる。人間は誰しもたった一つのことばかりに時間を費やすわけにはいかないけれど、人間の数だけ歯車はあって、噛み合った歯車の回転によって、時間が自分だけのものでなくなることを実感する。
 ノートに書くことは自分ひとりの時間にとどまるけれど、こうしてブログに書くことは、読んでくれるひとと歯車を重ねるような試みでもある。無数の歯車によって秒針が動き、長針と短針は時間を刻み始める。読み始めてから読み終えるまではささやかな時間だけれど、読む人にとってこのブログを読む時間が、悠久を願うものへと少しでも近づけたら嬉しい。そして、ゆっくりと時間をかけたぶんだけ杢が鮮やかになる樹のように、時間をかけることを厭うことなく、悠然と構えていられたらと、これから忙しくなる自分に向けて、ここに刻んでおきたい。