夢の通い路

 人が鏡なのだとしたら、そこに映る自分と、その自分の後ろにある背景の街並みもまた、それを映してくれる人間によって姿を変えるのだろうと思う。
 路面電車が向かう郊外の景色は雨に濡れ、新緑の水底に沈んで、ふるさとの川岸にたどり着く。曇天の堤防で、流れる川を眺めながら、言葉がゆっくりと溶けていく時間に身を委ねていた。


 与えたりもらったりでなく、一緒につくっていくのが人間関係なのだとさらっと言葉になって差し出されたとき、肩の力がすっと抜けたような心地と、わだかまりが解けたような実感が湧いた。
 欠けているところを直そうと焦ったり、必死になったりして、とにかくひたむきに頑張り続けることが価値であり美徳なのだと思い過ぎているのを指摘されたようで、痛いところを突かれ、はがゆくもありながら、それでもありがたい気持ちのほうが強かった。


 かつて過ごした街を歩きながら、まったく変わらないもの以上に、変わりゆく建物の姿が増えていることに驚き、さみしさがこみ上げる。変わらないと思っていたものすら、形を変えて街は生きていく。思い出だけがずっとそこにあって、忘れ去られていくまでの間に、少しずつ脚色されながら、輝いていくのだろうと思う。
 人間もまた、変わらないと思っていた部分が、何かの折に変わっていくこともありうる。同じ場所で考え続け、袋小路を抜け出せないままだったのが、霧が晴れたように新しい道が現れたような思いがあった。


 泣いてもいいとは言われたものの、まだしばらくは、泣かずにいられる気がした。去っていくはずの人から言われる「帰っておいで」という言葉には思わず笑ってしまったけれど、何かが変わっていくきっかけにしたくて、大切にしまっておきたいと思った。


 奇しくも続けて雨に見舞われたけれど、雨でよかったという気もしている。雲が去って広がった青空が、初夏の到来を告げていた。季節がめぐってまたどこかで同じ景色を見ることがあればいいなと思う。

波紋を待つように

 今の自分がどのようなことを考えて日々を過ごしているのか、それを言葉にせずにいると、何かがくすぶり始めるらしい。種火は燃え上がることなく、煙ばかりが立ち昇る。話すことも書くことも、やはり大切なのだと思う。どちらか一方だけでは、なかなかうまく生きていけないという気がした。文字に起こし、文章として残すことが、確かにそのとき何かを考えていたのだと刻印することになる。思ったことを自由に書く行為も時間も、とても貴い。


 仕事で書かざるをえない文章のルールが窒息しそうなほど苦しくて、これほど自分は書くことが不得手だっただろうかと思わされる。画面に向かってキーボードを叩くこと自体が、仕事のつらさを思い起こさせるようで、きつかった。過去形で書いたのは、それが今はそうではないと断言できるからではなく、こうしてブログを更新していることによって、そうではないと自覚しようとしているからである。


 一つ歳を重ねて、考えなくてはならないことがまだまだたくさんあることを思う。言葉を磨くことを怠ってはいけない。凪いだ水面に突如立つ波紋を見逃すまいと、じっとそれを見つめる姿勢を。波打った瞬間をきちんととらえ、表現する準備を。


 書くことの先に何があるのか、いまだにわからないけれど、それでも、書くことが生きることなのは変わらない。書けないでいる自分への戒めも込めて、次の一年をスタートさせたい。

5年を終えて

 新しい手帳を買うとき、目の前にはこれから先の一年が広がる。世間の年度替わりは4月だけれど、仕事の性質上、3月から次年度が始まるので、今日と明日の日付をまたぐことは、ある意味年越しと同じくらい大きなもののように思える。


 6年目に入る。5年も働いたことを感慨深く振り返ってしまう。就職するまでが本当に大変だった5年前、自分の築き上げてきた何かを洗い出すことに必死で、考えに考えた末の自分のあり方と、その伝え方の結果、この5年がある。


 肯定的なまなざしをもって、自分の歩いた道のりを振り返るようにしたいとずっと思ってここまで来たけれど、正直なところ今そこには迷いがあって、本当にこれでいいのかという思いが渦を巻いている。


 2週間の療養があって、心の底から、この年度末で別の部署に行けないか、そうでなければ会社を辞めるかということを考えた。異動については自分ではどうにもならず、結局のところもう一年、今年度と同じ場所にいることになった。
 今のところ、一度休んだことで、長時間働き過ぎるようなことには、なるべくならないような配慮が少しずつあって、同じことが起こらないようにはしてもらえている。


 身体の面が何とかなれば、問題は精神面になるのだけれど、厳しい部分もある一方で、5年やってみて、どうしようもなく自分に合っていると認めざるをえない部分があるのは確かで、それが現在の自分をここにつなぎとめている鎖みたいなものだと思っている。
 はた目で見れば、さっさと辞めればいいのにと思われるかもしれないけれど、そういうわけにはいかない理由も多々あって。辞めるくらいなら、好き勝手あがききって、なおかつ辞めた後のことを見通してからでないとと思う。


 ただ、仕事外の充実をどのように得るかというところには依然、問題があって、それが本当に苦しい。人と人とのつながりを、うまく広げ、保っていきたい。それだけがずっと、もしかしたら仕事以上に、この5年間苦労してきたことかもしれない。


 幸せな一年にする努力だけは怠らないように、前に進んでいきたい。

とりとめのないこと

 思えば昨年11月に療養して以来、放浪記と本の感想と掌編が続いて、日記らしいことを書いていなかった。直接書こうが書くまいが、仕事が大変なのは変わらないので、それ一色になるのも避けたかった。


 3月から別の場所に行ければいいのだけれど、それは2月半ばくらいにならないとわからない。精神的には結局限界近くまできているので、上に向かって危険信号を発してみると、心なしか厳しさは薄らいだ気もしたが、根本的な解決には、どうやっても至らないと思った。


 会いたいひとがたくさんいる。行きたい場所がたくさんある。ときどき、行ってみたい場所のことや、一緒に行きたいひとのことを考える。特定の場所、特定のひとのこともあれば、漠然と理想を思い描くこともある。
 11月に放浪したように、鉄道旅行がやっぱりしたくて、どんなひとと一緒に行けたら楽しいかを想像する。保坂和志さんの小説を読んでいるせいか、別にどうということもない事柄を、いつまでも話していられる相手がいいと思う。


 本の好みや音楽の好みが合うことも、きっかけとしては大切だと思うけれど、本や音楽がなければ話すことが何もないなら、それはあまりよいことではない。
 暖炉で燃えている火に薪をくべるみたいに、読んだ本や聴いた音楽をくべていくというよりは、特別な薪がなくても燃え続ける炎を大事にしたいなと思う。何もないのについしゃべってしまったり、なんとなく心地よくてずっと聴いていたりできたら、それ以上の幸せはないだろう。
 とても難しいのはわかっているけれど。


 とりとめのない会話、という言葉も非常にあいまいで、ひとによってそれは全然温度が違う。なんでもない会話の発端をつくろうとしゃべってみた結果、どうしてそんなくだらないこと考えてるのと言われてしまったら、それはもう会話にならなくて、話が弾むことはありえない。
 雑談というのが実はとても難しいことなのだと思い知らされる瞬間がそこにある。


 そんなことを考えながらふと自分にとってのとりとめのないことに思いめぐらしてみると、とりとめのないこと以上に本の話がしたくて、まずはそこから何とかしなくてはと少し焦るのだった。

読書記録2015

 2015年は、幸せな出来事と苦しい出来事の振れ幅が大きい一年だった。うれしいことも、つらいことも昨年以上。そんな気持ちの起伏に寄り添うかたちで読み続けてきた本の数々がある。
 今年もまた、大切にしたいと思えるたくさんの本を手に取ることができた。そのよろこびを振り返りながら、個人的今年の10冊を選びたいと思う。


 1/18 池内了『物理学と神』
 1/28 池内了宇宙論と神』
 1/31 竹西寛子『詞華断章』
 2/9 福永武彦『死の島 上』
 2/10 村上陽一郎『科学の現在を問う』
 2/11 池内了 『科学の限界』
 2/25 福永武彦『死の島 下』
 2/28 伊坂幸太郎『火星に住むつもりかい?』
 3/22 阿部和重伊坂幸太郎『キャプテンサンダーボルト』
 4/15 荻世いをら『ピン・ザ・キャットの優美な叛乱』
 4/22 安房直子『風のローラースケート』
 5/3 吉田篤弘『ソラシド』
 5/4 恩田陸まひるの月を追いかけて』
 5/6 ポール・オースター『ムーン・パレス』
 5/12 福永武彦『幼年 その他』
 5/13 福永武彦『告別』
 6/30 福永武彦『愛の試み』
 7/8 伊坂幸太郎ジャイロスコープ
 7/16 筒井康隆『旅のラゴス
 7/20 森見登美彦太陽の塔
 8/1 森見登美彦『恋文の技術』
 8/2 吉田篤弘『レインコートを着た犬』
 8/3 恒川光太郎『雷の季節の終わりに』
 8/11 恒川光太郎『月夜の島渡り』
 8/12 恒川光太郎『秋の牢獄』
 8/13 福永武彦『風のかたみ』
 8/14 京極夏彦柳田國男遠野物語remix』
 8/15 湯本香樹実『岸辺の旅』
 8/16 山口拓朗『書かずに文章がうまくなるトレーニング』
 9/3 天童荒太『悼む人 上』
 9/9 河野裕『いなくなれ、群青』
 9/14 河野裕『その白さえ嘘だとしても』
 9/17 宮部みゆき『過ぎ去りし王国の城』
 10/7 恒川光太郎『金色の獣、彼方に向かう』
 10/18 伊坂幸太郎『陽気なギャングは三つ数えろ
 10/21 恩田陸『消滅』
 10/31 小川洋子琥珀のまたたき』
 11/1 恒川光太郎『草祭』
 11/6 竹西寛子『管絃祭』
 11/11 高橋和巳邪宗門 上』
 11/18 高橋和巳邪宗門 下』
 11/28 沼田まほかるユリゴコロ
 12/16 恒川光太郎『金色機械』


 合計43冊。昨年を6冊下回る結果となり、少しだけ悔いが残る。ただ、人生においてかけがえのない1冊となった長編作品が多かったことを思うと、冊数は仕方がなかったかもしれない。
 文句なしで、個人的今年の10冊は以下の通りである。


 ①福永武彦『死の島(上・下)』(講談社文芸文庫
 ②福永武彦『風のかたみ』(河出文庫
 ③高橋和巳邪宗門(上・下)』(河出文庫
 ④竹西寛子『管絃祭』(講談社文芸文庫
 ⑤恒川光太郎『金色機械』(文藝春秋
 ⑥阿部和重伊坂幸太郎『キャプテンサンダーボルト』(文藝春秋
 ⑦吉田篤弘『レインコートを着た犬』(中央公論新社
 ⑧小川洋子琥珀のまたたき』(講談社
 ⑨筒井康隆『旅のラゴス』(新潮文庫
 ⑩ポール・オースター『ムーン・パレス』(新潮文庫


 同じ作家で2冊選ぶことは避けたかったものの、福永武彦の『死の島』と『風のかたみ』は、テイストがまったく異なる作品でありながら、どちらも素晴らしすぎて、真っ先に選ぶことに決めた。


 読んだ本はつねに、次の読書の道標になる。読み終えて、新たに灯る言葉の光をたどって、来年もまた、素敵な読書を続けたいと思っている。

【掌編】流木

 海岸に打ち上げられた細い流木を拾って、両手で真っ二つに折る。湿った枝は皮だけを残してまだつながっていたので、僕はそれを引きちぎって分断した。二つになった枝を、何の感慨もなく波打ち際に投げ捨てて、すぐに次の枝を探した。誰のものでもない何かを、意味なく傷つけることだけが、今ここに自分がいる理由なのだと思った。
 また一つ、手ごろな枝を拾う。もともとは太い幹の、立派な樹木の一部だったのかもしれない。想像もつかない過去から切り離され、流木は枯れ枝として、大した理由もなくそこにある。意志も希望もなく、ただそこにあるということで言えば、自分自身も流木と何も変わらなかった。大きくて立派な組織から離れ、どこへ行くともなく歩いた結果たどり着いたのが、この海岸だっただけのことだ。曇り空の下、冷たい風が運んでくるのは、濁った冬の空気だった。
 打ち寄せられる波に揺れる木の枝は、乾いた悲しみを伴って自分と重なった。誰の意志でもなくそこにただ流れ着いた枝が惨めに思え、僕は一つひとつ拾い上げて折り続けた。細いものは両手で、太いものは膝を使って折った。枝を折りながら、それらの枝の一つひとつは、自分に折られるためにそこにあるのだと、勝手な意味付けを行った。同時に、こうして枝を折ること以外に何もすることのできない自分の情けなさを思って、枝を握る手に力をこめた。
 折った枝の欠片の一つを、海に投げた。寄せては返す波に揺られ、しだいに遠ざかっていく。誰にも行き先はわからない。折るには太すぎて、容易に動かすこともできずに放置してある大きな流木のように、流された場所でただどうすることもできないよりは、ずっといいのではないかと思った。砂のついた両手を眺め、自分自身の身体すら、へし折ってしまいたくなった。首を、腕を、腰を、膝を、次々に折り、引きちぎられてばらばらになって海を漂い始める自分の身体を、魂だけになった自分が見つめている。どこか遠く、何も知らない場所へ、流されたかった。流された場所で、忘れられて朽ちていきたいと思った。
 ここに来る前にすでに折られてしまった心は、今ごろ水平線の彼方へと流されているはずだった。
 会社を辞めると伝えたとき、折った本人は血相を変え、自分が折った僕の心を呼び戻そうとしたけれど、そのときにはもうそれは、僕自身ですら手の届かないところへ運ばれていて、どうすることもできなくなっていた。もう少しだけでも頑張ってみれば、とか、これまで積み重ねてきた君の経験はこれからも必要だ、といった、上滑りする言葉だけが、空洞になった胸の中を通過していった。何の感情も湧かなかった。僕は下を向いたまま、ただ首を横に振り続けた。それ以上、一瞬たりともその場にいたくなかった。
 目の前ににじむ淀んだ記憶を通して鈍色の水平線をただ眺めていると、波の音がいつしか耳障りになって、僕は海岸を後にしようとした。けれど、波打ち際を離れて立ち去ることが、どうしてもできなかった。どこかへ行きたいという意志はすでになく、どこへ行っても同じだという思いが、身体の底からこみ上げてきていた。流されてしまった心が、遠くで自分を呼ぶ声が聴こえ、すぐに消えた。どこかへ流れ着く前に、海の底深くに沈んでしまったのかもしれない。
 折れそうな枝は、もう近くに落ちていなかった。
 僕はその場にうずくまり、声を殺して泣いた。どうして自分が泣いているのかわからないまま、涙だけがとめどなく溢れ、砂浜に吸い込まれて消えていった。

愛と死の円環をたどって

 殺意と愛が、薄い紙の表と裏に描かれていて、風が吹くたび代わる代わるはためいている。それはあまりに危うく、あまりに心もとなく、それゆえにその身を支える一本の柱と、そのよりどころを求めてしまうのかもしれない。


 沼田まほかる 『ユリゴコロ』(双葉文庫


 結婚を間近に控えた語り手が、次々と不幸な出来事に見舞われる中、父の病床を訪ねたときに、「ユリゴコロ」と書かれた手記を発見する。そこに書き連ねられたのは、人を殺めることの恍惚を心に住み着かせた人間の、生々しく恐ろしい告白文だった。


 誰が、何のために書いたノートなのか。なぜそれを父が隠し続けていたのか。書かれていることはどこまでが事実なのか。四冊あるノートを読み進めるうち、〈僕〉はそこに書かれた出来事と自分自身の存在が、決して無関係ではないことを悟る。


 ほぼ一気に300ページを読ませる筆力に心をわしづかみされ、呑み込まれるようにページをめくり続けた読書体験だった。物語の中で起こる現実の出来事と、手記に書かれたことが静かに重なり合うとき、必然的な着地点が目の前に現れ、その優しい光のまばゆさにそっと抱き留められるような感覚がやってきた。


 人は、何かを背負って生きている。犯した罪や過ちが大きかろうと小さかろうと、それを背負って歩いている以上は、どこかで誰かの生と交わり、その重みを分かち合うのかもしれない。世代を越えて、抱えた宿命の重さを思い知りながらも、それでも出会ってしまったその事実に、特別な意味づけをしたくなってしまう。
 人間と人間のあいだに生まれたつながりの必然性とその意味を、深く問うてくるような一冊だった。恐ろしくも美しい宿命の円環を、そこに見たような気がした。