降り注ぐ極光

 その場所を訪れても、諸々の条件が重ならなければ出会えないオーロラのように、良い筆記具との出会いも、そんな希少性や一回性を秘めているものである。

 

 9月3日にペリカンのスーベレーンを購入して、まだ2ヶ月と経っていないのに、そこからすでに2本の万年筆が、手元に増えている。いかにも勝手に増えたような言い方になるが、記憶が確かであれば自分の意志で購入したはずなので、これまでの経緯をここに振り返っておきたい。

 

 前回の記事に書いた、書き味の追求は、スーベレーンを使い続けていてもとどまることはなく、むしろ、バランスが取れていることに定評のあるスーベレーンを使い慣れたからこそ湧き上がる、突出した書き味を、今度は欲するようになった。

 

 書き味、という言葉は不思議なもので、我々はそれを自然と使っているが、その知覚はあくまでも触覚によるものであり、紙やインクやペン先を口の中に入れるわけではない。けれど、白い紙にインクを介し、ペン先を通して響いた摩擦が、首軸を伝って指先へと至るその瞬間、硬軟や滑らかさ、引っかかりの度合いなど、多様な情報が、一瞬のうちにもたらされる。手の込んだ料理の逸品に舌鼓を打つように、良質な万年筆を握ったその手は、繊細な書き応えの感覚の心地よさに震えるのである。

 

 満腹という欲求の限界が存在する食欲とは異なり、手書きへの欲求は、手の疲労(あるいは体調)による限界のみであり、しかもそれは、手元に紙と万年筆とインクがあれば満たすことのできるものである(しかも、万年筆はその性質上、長時間筆記しても疲れにくい)。

 そのような手軽さによって得られる、極上の書き味に取りつかれ、スーベレーン購入以来、毎日それを手にして机に向かう時間が幸せなものになった。

 

 何度目かのインクの補充を経て、飽きることなくその書き心地を堪能している日々ではあったけれど、さらなる欲望に駆られて、足繁く文具店に通っては、インクや他の万年筆、そして紙やノートを眺めていた。

 

 一説によると白は200色あるらしいが、ブルーブラックのインクの色味にも、メーカーの数だけ、いやそれ以上に広がりと深さがある。

 油性ボールペンを使っていた頃は、シンプルでオーソドックスな黒のリフィルが当たり前であったが、万年筆を使うようになってからは、ブルーブラックを使うようになっていた。前回記事でも言及した、ペリカンのエーデルシュタインインクのタンザナイトに惚れ込んで以来、他社のブルーブラックインクも気になってしまい、ふと文具店でインク売り場を覗いたとき、メーカー欠品中のCROSSのブルーインクを見つけ、衝動買いしてしまった。

 

 スーベレーンにはタンザナイトが入っているため、そのインクを使うには、つけペン以外の方法が手元になく、これを機に、前々から気になっていたPenbbsの透明軸万年筆を購入することにした。インクより安価ながら、癖になる書き味で、使い勝手の良い万年筆であり、これが2本目となったのだった。

 

 CROSSのブルーインクは濃い青で、紺や紫というよりは、藍色という感じの色味である。Penbbsのペン先と合わせて、滑らかではありながら、確かな書き応えと引っかかりが心地よく、細かな文字を書くのに適していると感じる。

 

 そんなふうに、ブルーブラックに加えてブルーにも惹かれたとき、もしかすると、集めたインクの数だけ万年筆が欲しくなるのではないかという、自明ながら恐ろしい真理に気づかされたのであった(パイロットには色彩雫という、3色1セットでお手頃に購入できるインクがあり、さらにお手頃に買える価格帯の万年筆のラインナップが充実している。セーラーの四季織インクも、日本の四季をモチーフにした色味が多数揃えられており、その濃淡の美しさは名状しがたいほどだ。これらに手を出すと、いよいよ後戻りできないであろう。良い意味で)。

 

 そんな中、万年筆の専門店が市内にあることを知り、行ってみることにした。興味本位で、軽い気持ちで訪れたのだが、そこで衝撃の事実を知らされる。

 

 そこにはいつも文具店に行くたびに気になっていた万年筆が、定価より安く売られていたのだけれど、それが11月から大幅に値上げされるのだという。上がった後の税込定価と、今目の前にあるものとの価格差は、実に約3万円。このお店でさえ、11月からは1万円ほど値上げされてしまう、ということだった。いつか買おう、が通じなくなる現実を突きつけられたのである。

 

 約1週間悩んだが、この機会を逃すと、もう一生買わないかもしれない、という予感が購入の決め手になった。そうして今、手元にあるのが、イタリア、Auroraのオプティマ(ブルーGT)である。

 深い青のマーブル模様の軸に、ゴールドのトリムとペン先。その美しさに見惚れるだけでなく、書き味もたまらない。滑らかでありながら適度な引っかかりを感じられ、シャリシャリとした手応えがやみつきになる極上の感覚を、右手にもたらしてくれる。スーベレーンとは個性が違うけれど、こちらもずっと書いていたいと思えるほど癖になる。

 

 筆記具との出会いは一期一会である。値上げの前に、偶然に出会えた幸福を寿ぎながら、軸を愛で、インクを愛で、そして紙を愛でている。万年筆という、趣味性・嗜好性の極致にあるような道具を買い続け、市場を支えるには、持続的な愛が不可欠であろう。タブレットスマートフォンの一般化、情報化、ペーパーレス化の荒波にもまれ、さらには円安の向かい風に吹かれ、今この時代に万年筆など、とほとんどの人が思うかもしれない。しかしながら、自分の身体が道具を介して紙に書きつけるという振る舞いの中には、消えゆく記憶を形に残しておきたいという思いが息づいている。そして、身体性の不可逆的な痕跡が刻まれた筆跡には、記憶以上のものを伝える力がある。紙とインク、その物質的な重さや厚み、色合いが、それを使っていた人間に代わって語り始める。書いたことが、生きたことを物語る。

 

 書くことは生きること、という座右の銘に、万年筆は新たな色合いを与えてくれた。