ペリカンを飼い馴らす

 kawecoのシャープペンシルと、LAMY2000ブラックウッドのボールペンを購入し、筆記具沼に足を踏み入れたのが昨年12月。まだ1年も経っていないというのに、もうここまで来てしまったのかと自分が信じられなくなるが、現実なので仕方ない。そして、たどり着いたからには、道標を立てておかなければならない。というわけで。

 

 9月3日、念願の万年筆、ペリカン スーベレーン M805 ブルーデューン(限定色)が届いた。
 記念すべき1本目の万年筆が、何の記念でもない日に到着したのである。

 

 いったい何が起こったのか(起こったというか自分で購入しているわけではあるけれど)。ここからは、めまぐるしい自分の心の内の推移について、順を追って振り返ってみたい。

 

 7月7日に、ウォーターマン エキスパートエッセンシャル ブラックCTのボールペンを購入したことは以前ここに書いた通りで、そこからも、木軸のペンを差し置いて、主に仕事の相棒として、そして自宅でも、最も高頻度で使い続けていた。使い続けながらずっと頭にあったのは、万年筆ではない。野原工芸のボールペンだった。

 

 5月にあった2022年下半期納品分の販売受付にすべり込み、購入を決めた野原工芸ボールペン(スタンダード) ハカランダの到着を、心待ちにしていたのである。

 8月下旬~9月上旬に到着することは知らされていたが、なかなか待ちきれず、別の筆記具で気を紛らせようと思い、その間は安価なシャープペンシルやボールペンを買って、筆記具欲を満たしていた。愛用する筆記具は、増え続ける。けれど、ボールペンに関して言えば、新しく買っても過去に買ったものが眠ってしまうことにはならなくて、思い出しては使い、時にはペンケースの中身を入れ替えるなどして、まんべんなく使えていた(良いペンは、いくつあっても困らない、と以前記した通りである)。

 そして、たくさん集める中で、追求するのは書き味、書き心地である。それぞれのペンに、それぞれの良さがあることを味わう過程で、本当に自分にぴったりな1本を見つけたい。もっと素敵な書き味はないかと、いろんなペンで書いてみたいという思いは強まる一方だった。

 

 ボールペンに関して言えば、工房楔さんのローズウッドこぶ杢、デザートアイアンウッドのこぶ杢を、3月、6月のイベントで購入させていただくことができ、さらにはそこに、野原工芸さんも加わることが決まっている。木軸はもうこれ以上何も言うことはなく、金属軸だって、真鍮の質感が美しいウォーターマンがいる。

 ただ、そのウォーターマンを知ったきっかけは、万年筆なのである。デザインにはずっと、惹かれ続けていた。

 

 当然、これだけ筆記具の沼に沈んでいるのだから、いつかは万年筆に手を出すだろうとは思っていた。しかし、高額なものが大半の世界、一度でも手を出すと、レンズ沼よりも危険なのではないかという恐れから、あまり見ないようにしていた。買うとしても、何かの節目にしっかり吟味した1本を買って、大事に使おう、と。

 

 なのに、である。いつもは行かない文具店に足を運んだとき、ウォーターマンの万年筆で試筆ができる売場に巡り合ってしまった。興味本位で、ほんの出来心で、少しだけ書いてみた。今思えば、それが始まりだったような気がする。


「そういうことか」と思ったのを、はっきりと覚えている。

 ペン先から伝わってきた、ボールペンにはない、その書き心地。ゲルインクのように滲みそうという先入観も簡単に覆し、滑らかで、かつ、滲まない発色――

 それは深く記憶に刻み込まれてしまい、以来、YouTubeで各ブランドの万年筆のラインナップや特徴、レビューを見始める。それが8月の初旬だったと思う。このブランドならこれだろうか、と品名や価格をメモし始めていた。

 

 そこで知ったのが、ペリカン スーベレーンだった。細くて小さくコンパクトなM200やM400に始まり、ほどよい大きさのM600、M800に、大きく重厚感のあるM1000まで、希望の大きさを選ぶことができ、そのバランスの良さから定番中の定番として、多くの人々に愛されている万年筆である。緑、青、ボルドー、ブラックと、トレードマークの縦縞が美しく、その美しさに惹かれ、一度ウォーターマンとの書き比べをしようと思い、お世話になっている文具店に、試筆に行った。そのときは、軸の素材が真鍮であり、キャップが嵌合式のウォーターマンペリカンは樹脂軸でねじ式)に軍配が上がり、いずれ買うならウォーターマンだろうなと思った。スーベレーンは美しいけれど、ブラックかブルーか、いずれにするにせよ、決め手に欠けるなと思ったのだった。

 

 そんな感想を抱きつつ、もし買うならば、その万年筆に一体どんなインクを入れるのがいいのかと、今度はそちらをペンと並行して調べ出したとき、ペリカンのエーデルシュタインシリーズを知ってしまう。純正のインクの二倍ほどの価格だが、ドイツ語で宝石の名を冠したインクは、ボトルのデザインから気品に溢れ、色味もその濃淡が美しく、いずれ万年筆でブルーブラック系統のインクを使いたいと考えていた自分に、エーデルシュタインのタンザナイトが完全に刺さってしまったのだった。このインクを使いたいから、1本目はペリカンで揃えたいとそこで考え始めることになる。

 ならばと先ほどの逡巡に戻り、ストライプの色はブラックかブルーか、さあどうする、と調べていくうち、見つけてしまう。

 

 それが、限定色のブルーデューンである。

 ストライプがトレードマークのスーベレーンシリーズだが、いくつかの限定色が発売されている。その中で、異色ながらもひと際美しい輝きを放っていたのが、このブルーデューンだった。Blue Dune(青い砂丘)をイメージして彩られた深い青に、黒のマーブル模様。月夜の砂丘を思わせる、細かな砂粒のような加工が軸にあり、光の当たる角度によってそのきらめきが変わる。一気に魅了された。そのフォルムに息を呑み、しばらく見入ったのち、1000本限定の文字と並んで、「在庫あり」が視界に飛び込んできた。しかも価格は、定価よりも20%安かった。

 

 少し冷静になって調べたけれど、店頭で販売している店にはなさそうだった(※後日談として、初めてウォーターマンの万年筆を試筆した文具店で、その実物が販売されていたことを知る。ただし、当然ながら定価だった)。ネットでしか購入できないとはいえ、書き味についてはウォーターマンと比較した際に、通常色のM800で確認済みである。あのとき、どちらかと言えばウォーターマン、と思った心は大きくひっくり返った。その惹かれ方に、運命めいたものがあるときというのは、振り払おうといくら頑張ってみても、頭から離れないものである。

 

 そのときの自分の、購入へのクリックを唯一引き留めていたのは、野原工芸のボールペンが来る前に買うわけにはいかない、という一点だった。本当はこのブログ記事だって、今頃は、届いて使用している野原工芸のボールペンについて、熱量たっぷりに語ろうと思っていたのだけれど、ご覧の通り、完全にスーベレーンの虜になってしまったのだった。

 

 もちろん、野原工芸のボールペン ハカランダも最高である。これは忘れずに書いておきたい。輸出入が禁止された絶滅危惧の樹種、ハカランダ(別名ブラジリアンローズウッド)は、黒の光沢と手触りが美しすぎる素材であり、その重みによる書き味はたまらない。万年筆を仕事で使うことができない以上、現在の仕事でのパートナーはこの1本である。4ヶ月待って上がりまくった期待のハードルを、一切下回らない質感と書き味が素晴らしすぎるうえ、書けば書くほど手に馴染んでくるのも愛着が湧くポイントである。

 

 これが届いたからこそ、もうしばらくボールペンは買わないと決意できたのだ。

 だから、野原工芸のボールペンが届くまで万年筆は待って、それで売り切れてしまったのなら、それは運命だとあきらめよう、とそんな覚悟でいたのだが、在庫はなくならずにあった。そんな経緯で今、スーベレーンM805 ブルーデューンが手元にある(※これも後日談だけれど、本当に限定1000本なのだろうか。2019年の発売から、いまだに購入ができるようである)。

 

 ボールペンとの重要な違いとして、一点触れておきたいのは、ペン先のことである。
ペンの書き味は、軸の太さ、重さ、素材、重心、長さ、インクなど、複数の要素が絡んで決まる。しかし、ボールペンにおいて、そのインクリフィルやペン先は、どれだけ高級なペンを使おうと、G2規格ならジェットストリーム、クインクフロー、イージーフローの三択であり、そこにパイロットのアクロインキ、ウォーターマンの独自リフィルが加わるのみだった。軸を変えても、ジェットストリームが書きやすいのは当然で、安心感と信頼はあるが、そこには慣れや飽きもあった。

 

 一方、万年筆は、各ブランドでこだわり抜いたペン先で、ペンそのもののインクフローがあり、使用するインクも多岐にわたる。そこに対する憧れや羨望は、どんどん大きくなっていった。しかも、ペンポイントと呼ばれる先端部は、書き手の筆記角度に従ってすり減っていくという。俗に言う「ペン先を育てる」というものである。

 

 「おすすめの万年筆」というカテゴリーがボールペンやシャーペンほど評判にならないのは、もちろんその価格帯によるところが大きいだろうけれど、人によって好みの書き味が異なる分だけ、自分に合う万年筆もそれぞれであり、万人に合うものを探すのではなく、自分にぴったりと合うものを選び、こだわって使うところにその魅力があるからではないかと思った。

 

 ここからは、スーベレーンのレビューに入ろうと思う。

 18金製のニブ(ペン先)がもたらす書き味は、初めて書いたとき以来、継続的に自分を惹きつけている。万年筆というもの全般に対して抱いていた、硬そうな書きごたえを、スーベレーンは見事に覆したのだった。ドイツ語で「卓越した」という意味を持つスーベレーン。バランスの良さを評価されるだけあって、非の打ち所がない1本だと思う。

 

 万年筆に、強い筆圧は必要ない。基本的に重さに手を委ねれば、インクは滑らかに紙の上を走る。もともとボールペンを使っているときには、強めの筆圧による書き心地を好んでいたのに、万年筆による、繊細な書き心地がたまらないのである。力まずにペンを走らせたときにのみ指先に伝わってくるその書きごたえは、書き手にリラックスを促すようでもある。繊細な中にも、とめ・はね・はらいのコントロールが利く感覚があり、無駄な力が入っていない状態でこそ、思い通りに文字が書けるという心地よさ。仕事で使える場面が少ないがゆえに、趣味の時間をゆったりと過ごすために、ペンの側が書き手に配慮をしてくれているようにすら思える。

 

 そして、その書き味とともに広がる、エーデルシュタインインクの発色。タンザナイトが放つブルーブラックの色味に、うっとりする。書き始めの光沢と、乾いてからの濃淡の差を眺めているだけで楽しい。好みの色が文字になっていく悦びと、書けば書くほど力みが抜け、極上の書き味を堪能できる幸福感は、ずっと書いていたいという境地に連れていってくれる。

 

 今日の時点で、使い始めてから2週間が経った。毎日のようにルーズリーフにびっしりと文字を書き連ねているけれど、他のペンを使いたいという気持ちにならないくらい、スーベレーンの書き味に取りつかれている。インクをタンザナイトからオニキスに替え、黒の発色も楽しみながら書き味に浸り、ペン先を育てているという期待感に耽る。スーベレーンの天冠には、ブランドの象徴である、子育てするペリカンが描かれている。繰り返しになるけれど、ペン先は「育てる」ものである。ならば、ペリカンの万年筆は、できる限り長い時間、愛情を注ぎ、寄り添っていくことで、自分になついてもらえるのではないか。すでに自分の手に馴染み始めた書き味にうっとりしながら、そんなことを考えている。