会話が開く余白現象を目指して

 2022年1月、これが10本目の記事となる。ここまで本の感想が5つ、文具の話が3つ、掌編小説が1つ。雑で適当にならないように、一定の長さのものをと思って、この量を1か月に書いたのは、たぶん働き始めてから初めてのことだと思う。
 が、さすがに今回、仕事が忙しい時期ということもあり、読んでいた本は読み終えられなかった。

 

 李禹煥さんの芸術に関するエッセイ『両義の表現』(みすず書房)を今は読んでいて、そこに並ぶ言葉が一つひとつ、文章を書く自分に響いてくる。読了はできていないので、感想文ではないのだけれど、これをきっかけにして思ったことを、以下に綴っておきたい。

 

 描いたものと空白が、または描いたもの同士が空白を介して、反響しあい一つの絵画空間が開かれるのである。私はここに、絵画の始まりを見る。(p.95)

 

 余白は存在するものではない。それはいわば、有が無と関係し反応しあい、そこで生じる場の力の現象なのだ。対象を場に溶け込ませ、その空間を見えるようにすること、言い直せば対象の有を無にして、場を浮き彫りにする営み――。その出来事が余白として広がる。だからここで絵画とは、場が開かれる余白現象を指す。絵画は、こちらの働きかけによる外界との共鳴の波状であり、対象を越えた超越の広がりのあらわれなのである。(p.97)

 

 文章でも口頭での会話でも、余白というのがあまり得意ではない。
 説明不足と言われたくないし、気まずい沈黙は避けたいと思って、言葉を尽くすほうを選んでしまう。だから、時として言わなくてもよいようなことを言って、後悔することがある。あのとき、もっとこう言えばよかったという反省を上回るのが、もっと丁寧に聴けなかっただろうかという思いである。対話はダイアローグという名が示す通り、独りで行うものではないし、会話の途中で生まれる沈黙を共有できる尊さを、経験的にわかってはいる。それでも……と、これ以上書くと、いつもと変わらない、閉じられた自己嫌悪になるので、今日は話の方向を変えたい。

 

 上記のような後悔をたびたび経験する一方で、会話のなかでの余白がとても巧い人に出会うこともある。相づちが巧みだったり、共感が丁寧だったりして、こちらが話したい思いを汲んで、関心を持って質問をくれたり、続きを促してくれたりする。しゃべりたい側からすれば、「もっと聞かせてください」は、涙が出そうなくらいありがたい言葉である。単純極まりないけれど、承認される悦びを、そんなふうに相手に与える話し方、聴き方に感動する。

 

 とはいえ、そんな感動的な配慮を鵜呑みにすると、またしても例のしゃべりすぎ(余白の埋めすぎ)が生じそうになり、我に返る。
 しかしそこで、「話したい自分」と「聴きたい(聞き上手の)相手」という構図を覆すスキルは自分にはなくて、促されるままに心地よくしゃべってしまい、終わってから、またしゃべりすぎたかもしれない、全然相手の話を聴けていない、という後悔に陥ることがある。

 

 聴く側に回る話し方や沈黙(余白)の作り方というのが、自分の手札にないのかもしれない。
 相手に発言を促そうとするとき、それが雑な質問をしているように思われたらどうしようとか、相づちがうまく打てずに「どうせ私のことには興味ないんでしょう? 自分がしゃべりたいだけなんでしょう?」などと思われるのが怖いとか、逆にあれこれ聞きすぎて、触れられたくない部分に触れてしまうのももっと怖いなどと思ってしまう。

 

 世間にはそういう問題を解決すべく、「コミュニケーション能力を高めるための本」や「話し方・聴き方の動画」などが溢れ返っている。でも、人間と人間の関係に同じものはなくて、考え方や解法を一般化できるものではないだろう(そんなことができたら人類はとっくに平和になっているはずだ)。何が正解なのかは自分と相手の関係性によって無数に変わりうる。

 

 別にここで、話し方や聴き方をどうすればよいのかという結論を出すつもりはないけれど、最近思うのは、聴くのが上手な人が、いったい何を考えているのかということだ。聴き上手と言っても、本当に興味があって傾聴の姿勢を向けてくれる人もいれば、自分のことを言わずに済むように、聴くことで防御を行っている人もいるかもしれない。

 

 繊細な本音と建前や、快・不快の境界線は、決して目には見えないものだ。
 そもそも、そういうことを気にしないような、深く考えていない振る舞いのほうが、相手にはかえって安心感を与えられることもある(おおらかに見える振る舞いをできる人が、ときどきとてもうらやましくなる)。

 

 でも、考えてしまうのだ。
 この人は、何を考えているのだろう?
 何に笑い、何を許せず、どんなことに悦びを感じるのだろう?
 表に出しているどこまでが「本当」なのだろう?
 自分のことを話したいという欲求はあるのか?(ないのか?)
 自分に自信がないから話したくないのだろうか?(そんなに聴くのがうまいのだから自信を持ってほしい)

 

 そして、こういうことを考えてしまう自分はやはり、面倒な人間なのだろうか。
 と、ここにこうして書いたことも、実際にはどこまでが本当かは、誰にもわからないのだろうけれど、と不穏な感じで締めくくってみようか、と考えたりする。

 

 一つ確かなのは、こういうことでぐるぐると考えたことがある人とは仲良くなれそう、ということかもしれない。