喪失から物語は始まる

 ポール・オースター[著] 柴田元幸[訳] 『ムーン・パレス』(新潮文庫


 物語の根源には、喪失がある。何かを失うことで見えてくるもの――それは、すでにそこにあったものが見えるようになることでもあるし、新しい意味や価値の発見でもある。目の前で起こる出来事に、どんな意味づけを行うか、自分自身の物語にとって、どのような位置づけとなるか。もしかすると、それを決めるのは、生きていくうえで何を失ってきたかということなのかもしれない。


 幼いころに母親と死別し、伯父ビクターに育てられたマーコ・スタンリー・フォッグ。母であるエミリー・フォッグは、マーコの父親が誰なのかを誰にも明かしていなかった。クラリネット奏者の伯父ビクターにかわいがられて育ったマーコだったが、コロンビア大学に在学中、ビクターが亡くなってしまう。葬儀や諸々の費用で財産は底をつき、生活がままならなくなる。伯父から譲られた千冊を超える本を食費に変えながら、なんとか日々を生きていく。
 だがついに、ニューヨークの街に極限状態で放り出され、公園のゴミ箱から食べ物を漁る生活を余儀なくされる。
 その後、親友のジンマーと、マーコに一目惚れしていたキティ・ウーに助けられて一命をとりとめ、ジンマーのマンションに居候することに。その後、働けるまで回復したマーコは、足の不自由な盲目の老人エフィングの介護のアルバイトを始めることになる。


 物語はマーコの半生を描いているが、同時に、マーコと深く関わることとなった伯父ビクター、老人トマス・エフィング、そして歴史学者のソロモン・バーバーの生涯も語られる。彼らはもちろんだが、何より読んでいて楽しかったのは、登場する人物それぞれのエピソードが一つひとつ輝いていて、魅力的に浮かび上がることだった。
 陽気なビクター、チャーミングなキティ・ウー、腹立たしくもあるが憎めない老人エフィング、彼を見守る優しい使用人ミセス・ヒューム、そして巨体を揺らす禿頭のソロモン・バーバー。彼らの姿がなんとも生き生きと描写され、物語を構成するキャラクターとしてではなく、一人の人間が生きていくうえで出会う大切な人々の姿として、最後まで読んでいた。


 月が満ち欠けを行うように、何かを失ったとき、そこには別の何かが始まっていく兆しがあるのかもしれない。M・S・フォッグは物語の終わりから、どのように生きたのだろう。本を閉じてから、彼を待つその先の人生が、苦しみより幸せの多いものであってほしいと願った。


 5年くらい前から読みたかった一冊だったはずが、読むまでにずいぶんかかってしまった。ただ、今このタイミングで読めて、幸せだったと思える。本には間違いなく、人生において読むべき瞬間があるのだろう。同じ本でも、若いときに読んだからこそその後の指針になりうる作品もあれば、苦難を乗り越えた後に読んだからこそ深い共感を得られる作品もある。
 読んだぶんだけ、遠くに行ける。一つ読み終えることで見えてくる新しい眺望を楽しみに、次の本を手に取りたい。