記憶の地図を広げて

 小学校時代からの友人の就職が決まったことを、昨日電話で知った。年明け直後は留年しようか思うと言っていたから心配していたのだけれど、なんとか進む道が決まって、こちらもほっとした。しばらくその経緯を聞いたあと、勤務地を訊ねたら、なんと和歌山だという。てっきり大阪にずっと住みながら働くだろうと思っていたので驚いた。もう、引越しの準備を進めているらしい。
 自分が慌しくひとり暮らしを始めたのにこんなことを言うのもおかしな話だけれど、まさか彼もひとり暮らしを始めるとは思わなかった。


 大阪の、中学時代まで僕が過ごしていた地域へ遊びに帰るときは、いつも彼の家を拠点にさせてもらっていて、せっかくまた大阪に住むことになったから、近々遊びに行けたらと思っていたところだった。


 数か月後にふらっと遊びに行っても、その街に彼はいないのだと思うと、不思議な感じがする。見慣れた建物と、歩き飽きた道と、そこで過ごした記憶があるということだけが故郷の条件ではない。変わらず迎えてくれる友人たちがいてこそ過去は、生きた記憶として息を吹き返す。
 集まる機会が減るだろうことを残念に思いつつ、それでもいつかどこかでまた、互いに思い出のかけらを持ち寄りながら、新鮮な経験と色褪せない記憶の往来を楽しめる日を、心待ちにして生きていきたい。


 本当に、自分の身の周りのこと以上に、他人から聞く話のなかに、節目を迎えていることを実感させられる。それぞれに新しい生活が始まっていくのだと、身が引き締まる思いがする。
 数日前まで住んでいた奈良や通い続けた京都もまた、いずれ懐かしさをともなって現れる日が来るのだろう。住む場所を変えるたび、故郷と呼べる土地は増えていくものなのかもしれない。


 かみしめたよろこびも、にじんだ悔しさも、何もかもを包み込んでくれる場所が、振り返れば自分だけの懐かしい街並みを築いている。まっしろな地図に道の続きを書き込むように、右も左もわからない場所を、これからまた一歩ずつ進んでいくのだ。
 たどりついた場所から振り返った過去は多分、褪せていても美しい。