東京・レポート(表参道編)

 1月17日(月)


 小説のなかで見た表参道と、季節は真逆だった。葉が落ちきった欅の並木道を、寒そうにしながら多くの人が行き交っている。けれどみんな表情は楽しそうで、通りは幸せに満ちた賑わいに溢れていた。人が多いからなのか、やっぱり京都に比べると東京はずいぶん暖かい気がする。京都で着けていた手袋は、東京に来てからずっと鞄に入ったままだった。
 キャリーバッグを引きずりながら、青山通りの交差点のほうへ歩いていく。


 大好きな柴崎友香さんの小説で最初に読んだのが『ショートカット』(河出文庫)で、そこで描写される表参道にどうしても行ってみたかった。こんな場面がある。


「ああ、東京? ええ響きやなあ、トウキョウ。しかもな、表参道やで。行ったことある? 表参道」
「ない」
(…)
「ないんか。それは人生の損失やな。表参道はおれが知ってるなかでいちばん美しい場所やで。美しい、なんか普段使わん言葉やろ。でもおれは使うもんね、今ここで、表参道のために」


 そんなに? と思わず言ってしまいそうになったぐらい、小説のなかでは魅力的に表参道は描かれる。それは多分、「わたし」や「なかちゃん」にとって大切な人のいる、憧れの場所としての表参道だから、余計にそうなのかもしれない。単なる観光として、美しいものを見たいという目的で行く旅とは違った輝きが、そこで現れる景色に宿るのだと思う。


 小説のなかで「わたし」は表参道にワープする(正確には、ワープしたかのように描かれる)。夏の日差しは揺れる新緑の木々にまっすぐに差し込んで、大きな木漏れ日を足元につくる。


「(…)なかちゃん、表参道って、なかちゃんが言うてたとおりのきれいなとこやなあ」
「ああ、そうやろ。めっちゃでかい木はえてる?」
「ほんまにおっきいからびっくりした。欅やな、これ」
「欅、欅っていうんか。一生忘れへんわ、その名前」
「緑色がいっぱいできれい」


 同じような時間に行ったのだけれど、季節が違えば太陽もずいぶん傾いていて、想像していたものとはやっぱり少し違った。でも、素敵な場所だと思った。豊かな緑色にはお目にかかれなかったとはいえ、ここに並んでいるような大きな欅は、大阪でも奈良でも、京都でも見たことはなかった。広い車線と、広い歩道と、退屈させることなく続く看板や広告と、その何もかもが新しい記憶として、自分の一部になっていく。憧れや想像と、現実との間にある溝を飛び越えるように、新しい場所への旅は続いていくのだろう。何か見たいものがあって、それを見られたことが大切なのではなくて、その場所に訪れて、そこに自分が立っているという事実を心に刻むことが大切なのだと思った。
 もう一度、暑さが厳しい夏にでも、この場所を訪れることができたらと思う。強く願えば、どこへだって行けるのだと、小説でも現実でも学んだのだから。