休符を聴くように

 新刊が気になっていると書いたものの、買ってそのまま置いてあるものは取り急ぎ読まなければならないので、先にそちらから読もうと思って京都駅へ向かう電車の中で読み始め、帰ってきてからも一気に読み通しました。
 それがこちら。


 小川洋子[著] 『余白の愛』(中公文庫)


 なぜ京都駅へ向かったのかはさておき、またまた小川さんの小説です。230ページほどとはいえ、やはり長編だからこそ味わえる、奥深くて心地よい作品世界がありました。


 静謐という言葉が非常にふさわしく思える静けさ、沈黙、音のない空間に漂う雰囲気といったものを純粋に書き上げた初期の傑作だと思います。『密やかな結晶』でも見られた美しく危うげな静寂が、この作品にも見られました。


 物語は、突発性の難聴を患った「わたし」が、速記者のYと出会い、言葉を発する人間の影となってその言葉をしたためる彼の指に惹かれながら、ひっそりと交流を重ねていくというものです。


 音が遠のいていく世界に生きる「わたし」の視点によって語られる世界に満ちている静けさ、そして、自分の感情を表に出すことなく、発せられた言葉を黙々と紙につづるYとのやりとり。騒がしさとは無縁の世界があるのは明らかですけれど、本来小説というのは言葉だけで構成されているものなのだから、文章の端々から音が聴こえてくるというのはありえないことで、そこに物理的な音というのはありません。


 しかし、五感を揺さぶるのためには、言葉というものだけで充分事足りるという事実を、読書好きな人間であれば誰だって知っていると思います。そういう理解があったうえでのことですが、この『余白の愛』には、そして小川洋子さんが書く小説の世界には、音のないところに満ちる空気や、そこで感じられるぴんと張り詰めた沈黙が、丁寧に封じ込まれています。誰かが言葉を発したり、何らかの音を生み出さずとも、登場人物たちのあいだには確かな手ざわりを持った物語があります。『ブラフマンの埋葬』のブラフマンもまた言葉を発することのない存在で、そういった言葉での交流のないところに生まれる物語が、静かだけれど確かな言葉で語られるという逆説があり、それはまるで、沈黙もまた音楽であることを私たちに示すジョン・ケージの「4分33秒」を思い起こさせました。
 小説として語られる言葉と、その行間の余白から溢れ出る物語が、静かに奏でてくれるメロディにひたれる心地よい長編でした。エッセイを含めいくつかの短編集と長編を読んできましたが、小川さんの小説では個人的に初期の長編がとりわけ好きなのかもしれないと最近思います。