越境する言葉たち
楽しかったと感想を持った大阪での一次面接に残念ながら受からなかったという旨を伝えるメールがきて、小さくため息をつく。小さいため息で済んだということは、大して志望していなかった証みたいなもので、しばらく時間が経った今になっても、また一つ持ち駒が減ったか、ぐらいしか思わない。楽しく喋って駄目だったということは、理屈抜きに就職が縁で決まるということを意味している気がしてならない。
だからこそずっと気に病むぐらい考え続けている東京で受けた面接の結果が、まだ届かない。遅くとも23日までにとは言われたけれど、一次面接も作文も、1週間以内に結果が来たから、もういつ届いてもおかしくはない。
落ちたと思うことにしようと自分に言い聞かせつつも、絶対に心のどこかで期待してしまっていて、結果が届かないかぎり、ずっと浮き足立ったような、焦燥感みたいなものが絡みついたままなのだろう。
多分、人質になってこめかみにピストルを突きつけられたらこんな気持ちになるんだろうなと想像する。殺すのであれば一思いに殺してほしいと真剣に思う。それが比喩なのかそうではないのか、だんだん気持ちに区別ができなくなってきた。
で、そういった内面のあれこれを抱えながら、今日は京都にて筆記試験を受けてきた。そりゃ受かればうれしいけれど、別に結果はどうだってよくて、市バスの定期を購入したということもあって、帰りに恒例の某巨大書店Jへ寄った。
寄るんじゃなかったと良い意味で言えるぐらい、今後読みたい本が一気に増える。
一応目的はあって、他の大型書店で見つからなかった本が、やっぱりここなら見つかった。今回買った本がこれである。
どうでもいいことをあえて言うなら、友人との会話(長電話)のなかで話題に上がった本である。先日、川上未映子さんのエッセイを読んだこともあり、そこで少し言及されていたので気になっていた。
それ以前からも、読んでおきたい思いは少なからずあったと思う。
ドイツ文学に傾倒した作家さんの本を、あまり読んでこなかったからである。専攻の関係上でドイツ語を学んできたにもかかわらず、これまで堀江敏幸さん(フランス文学)だったり須賀敦子さん(イタリア文学)だったりを好んで読んできた。
だから、いい加減、(海外旅行でもドイツは訪れたことだし)ドイツ文学系統の作家を読まねばと思って、今回多和田葉子さんに手を伸ばしたしだいである。
とりあえず、短い表題作は読み終わったものの、感想を述べる語彙力と、初めて触れる形の文章に少なからず整理がつかない部分もあるので、全部読んでからまた感想を書ければと思う。
明日は学校。3限と5限に気になる授業があるけれど、友人には多分まったく会わないんじゃないか、とさみしいことを言ってみる。