否定弁証法の肯定

 今日は体調不良のため、自主休講という形で自宅待機してました。
 と、なんとなく四字熟語的な言葉を並べてみる。
 風邪は治りませんが、文献講読の発表は明後日に迫っています。




 本当に面白いこと、楽しいことというのは、えてして無意味なこと、無駄なことだと思う。芸人のやっていることを見て笑うときというのは、「それ全然意味ないやん」とか「無駄なことしててめっちゃあほやん」とか、現実と照らし合わせるとどう考えても無意味で無駄な行為を目にしているときだと言える。無駄知識を供給する番組もかつてあったし、趣味や娯楽というのは往々にして非生産的で、社会的には意味のないものである。
 しかし、人間誰でも楽しく生きたいと思うだろうし、笑って毎日を過ごしたいと願う。面白いこと、楽しいことを、私たちは精神的な糧として必要とする。
 ここには、無意味で、無駄で、何の役にも立たないものが、「必要とされている」という図式が成立する。楽しく生きようとか、充実した日々を送りたい、と考えるかぎり、私たちには無意味さというものが必要不可欠である。
 そうなってくると、無意味なものというのは、もはや意味のないものではなくなる。無意味で、役に立たないとされているものは、それ自体が有用性を持って存在するようになる。ハイデガーのように言えば、無意味なものそれ自体の存在が、有用性の輝きを持って私たちに現れ出てくる、ということになるだろう。
「文学部の勉強って何の役に立つの?」そう訊いてくる人間は少なからずいる。
 仮に、役に立たないもの、無駄で無意味とされるすべてのものをこの世界から消してしまうとしたら、どうなるだろうか。そこにはただ、働いて給料を稼ぎ、そのお金で生活に必要な衣食住を満たして日々を生きるのみの生活があり、社会は単なる巨大なシステムが機能しているのみの空虚なものになってしまうだろう。そこには精神性を欠いた世界しかない。それこそ真の無意味ではないだろうか?
 役に立たないと言われる文学部の学びというのは、確かに社会を動かすシステムとして直結するものではない。だが、人間の生において欠かすことのできないものがそこにはあって、それは間違いなく人生を豊かにするものとなりうる。
 文学部というものがこの世に存在していて、文学部の授業が楽しいと言う学生が多い理由はそこにあるんじゃないかと思ったり思わなかったり。


 文化産業について考えていたはずなんですが、思考が飛躍を重ねるうちに、普段から考えていることに帰着してしまったため、調子に乗って詭弁を弄してみました。
 明後日に迫るプレゼンに向けて、ちゃんと文化と産業の関わりと、それらを支配する様式について考えたいと思います。