てすとべんきょう

 明日のために! あえて折りたたみません。


 シュライアーマッハーは、ロマン主義解釈学の代表者であり、それまで分野ごとに積み重ねられてきた特殊解釈学を越えて、あらゆる言語表現を解釈の対象と見なす一般解釈学の必要性を唱えた。
 近世の啓蒙主義的な解釈学においては、言語は理性的認識を運ぶ道具に過ぎず、理性に適ったものは万人に理解可能なものだとされていた。
 これに対し、ロマン主義的解釈学は、理性と言語は分離不可能なものであり、両者の相即関係の中でその著者の個性を捉えなければならないとする立場である。
 シュライアーマッハーは、聖書などのテクスト解釈だけでなく、話し言葉も含めた言語表現における解釈の重要性を指摘し、単純にテクストを読み解くための技術の蓄積から、理解や認識といった哲学的問題へと解釈学の扱う領域を拡張する。それが一般解釈学と呼ばれるものであり、思惟や言語の本性から、あらゆる規則を導くような哲学的基礎付けを伴うものである。また、彼は理解において、誤解が常態であり、それを前提として解釈を考える必要があるとする。
 彼は文法的解釈と心理学的解釈という二つの側面からテクストを理解しなければならないと主張した。どちらの側面においても、解釈は個性的な言語と一般的な言語、あるいは個性的な思惟と一般的な思惟との循環の中で行われる。これは、テクストの言語的意味は必ず部分と全体との関係の中で特定されるということを意味する。全体の内容を予見しつつ、部分を他の事例と比較しながら読解するという方法である。この循環から著者の思惟に到達することを、シュライアーマッハーは解釈学の中心だと考えた。彼は、テクストの意味を著者の思惟に還元し、その意図を客観的に再現することが解釈学の仕事であるとした。また、テクスト以上に話し言葉による表現を、著者の思惟をより理解できるものだとして重視している。
 重要なのは、解釈学は科学的な知のあり方とは異なり、定義から出発することをせず、部分と全体の循環の中に知を見出すという点である。
 シュライアーマッハーの主張した解釈学のあり方は、のちのディルタイやガダマーによって、言語表現のみならず、歴史や法、芸術についての解釈にも向けられることになる。


 と、大雑把にまとめてみるとこんな感じになるでしょうか。要するに、啓蒙主義の立場では、考えることと話すことは別のものとして扱われていたのに対し、シュライアーマッハーに代表されるロマン主義的解釈学の立場では、両者を切り離すことはできないということになります。関西で暮らしている人間が、物を考えるときも関西弁で考えるように、普段喋っている言語と考え方っていうのは密接に結び付いているとする立場です。
 まだまとめ方が少々雑なので、コンパクトにしないと駄目ですね。


 何はともあれ、明日の5限でテストは終わりです。終わったところでインターンシップの事前研修が待っているため、素直に喜べません。数えてみたら8月の半分以上はスーツで過ごすことになりそうです……。