言論の自由で

 書かれたものを読むこと、ものを書くことを続けていて良かったなと心から思う、と今日のことを言うのは大げさだろうか。でも、正直まだ夢見心地な余韻は尾を引いている。


 大好きな作家の一人である川上弘美さんが、大学にいらっしゃったのである。うちの大学の客員教授でもある映画監督の是枝裕和さんとの対談というかたちで、なんとも豪華な機会だった。
 映画をあんまり見ないので、是枝監督のことについては多く書けないのをご了承いただいて、とにかく川上さんのお話を間近(2列目)で聴けたことが、終始夢のようだった。


 このブログにもしばしば感想を書いているけれど、川上弘美さんといえば、2年前にデビュー作の『神様』(中公文庫)を友人と読んで、いろんな意味で感動してファンになり、ずいぶんと作風にも文体にも影響を受けている、憧れのお方である。一般にどれほど認知されているのか実感としてよくわからないが、僕個人にとっては川上さんが大学にいらっしゃると知った段階で、大好きなアーティストのライブに行くぐらいテンションが上がって、今日という日を内定がまだ決まらぬ2ヶ月前から心待ちにしていたのだ。


 会場となるホールには、あの川上さんが来るのだから相当な混雑が予想されるんではないかと個人的妄想により思い込んでいたけれど、完全に杞憂で、前述の通り2列目に、川上さんの正面に座ることができた。あの川上さんなのに! スターじゃないか!(爆) などと着席してしばらくは思っていたぐらいである。俗世間と自分の思い入れの乖離に、なんとまあ、と少しびっくりした。


 黒縁の眼鏡をかけて、紺のカーディガンとジーパンにスニーカーという、思っていた通りというか何というかラフな格好で現れた川上さんは、その話し方も文体からイメージしていたものと重なる部分が多くて、そのままやん、と思わず笑ってしまった。ゆったりと、のほほんとしつつ、しれっとものを言うその雰囲気は、想像とたがわず素敵だった。


 対談の内容面も一つひとつ印象に残っていて、あれもこれもと聴いたことを書きたいのだけれど、内容を書き連ねるよりは、自分の思ったことをざっくりまとめて書いたほうがいいのかなと思う。


 何度も言うが、本当に夢みたいなことなのである。作家さんのサイン会にも僕は行ったことがこれまでないので、実際に好きな作家さんを見る機会がまず、初めてのことなのだった。そのよろこびがまず圧倒的に大きいから、聴いて思ったことがまとまるまで、しばらく時間がかかりそうな気がしている。


 作品を数々読んできている者としては、川上さんが絶対に書かないものとして「生きててもつまらない、しょうがない」という意味のこと、とおっしゃったのは印象的だった。生きていることに対する強い肯定。「生きてるだけで儲け者、みたいな」と話す川上さん。
 作品を振り返って考えてみると、確かにと納得できる。いろんなことに嫌気が差して気持ちが沈んでいる人間を書くことはあっても、生を、世界を、決して否定するようなことはしていない。どの作品にも、人間以外のいろんなものが出てきていても、その世界を受け容れる姿勢が見える。肯定していることが、登場人物の語る言葉で直接的に書かれることはないけれど、物語全体における雰囲気が、それを語っているような。それが文体と相俟って、言葉にしがたい温かな安心感を読み手に伝えているからこそ、川上作品は広くいろんな人の支持を受けているのかもしれない。改めて、そんなふうに思えた。


 そして。全体を聴き終えて思ったのは何より、これを聴いただけで満足している場合ではない、ということだった。なんとしても同じ地平に立ちたい。一人の小説を書いている人間として、お話しできるぐらいのところまで行きたい。そんなふうに思う。書くということの来し方と行く末について語りたいと、非常におこがましくも思ったしだいである。


 いろんな自己表現の手段があるなかで、書くことが自分のなかの最高のものなのかどうか。就職して、その先にある自分の物書きとしての生き方に一抹の不安も感じながら、それでもやっぱり小説は書きたいと強く思った一日だった。


 最後に、読み手にはどうでもいいと思われるであろうことを書いておきたい。
 小説を読み終わって「川上さんのこの文章が――」と書く場合と、そこにいて、実際に話していた「川上さんの言った言葉が――」と書く場合、イメージしている距離感は全然違う。作品の向こう側にいるのではなく、作品よりこちら側にいる人として、今日のことを書けるのが、本当に幸せである。


 ちなみに、今日の日記のタイトルは、対談を聴いた人にしかその意味や理由がわからないようなものを選んでつけた。