人々は祈り、また海に出る

 日々を無事に生きていきたいという思いは、自然と祈りというかたちをとって現れる。人間の力の決して及ばない場所に、特別な何かの存在を生み出して、人々は祈りをささげる。一日でも長く生きようとする思いに、善悪はあるのだろうか。


 吉村昭 『破船』(新潮文庫


 とある高校の入試問題を解いていて、抜粋を見つけ、続きが気になって買いに行った一冊。吉村昭を読むのもこれが初めてだった。


 海辺の貧しい村を舞台に、物語は描かれる。視点は九歳の少年、伊作。大人たちは海に出て、漁で生計を立てているが、人々の暮らしを支えているのは、「お船様」と呼ばれるものから得た恵みである。
 「お船様」とは、冬の真夜中に、航行に失敗して難破した商人の船のことで、年に一度やってくるかどうかわからないその難破船の積荷が、彼らの生活を潤し、豊かにしている。


 ――お船様には、食物、什器、嗜好品、繊維類などが積まれているのが常で、それらは村人の生活を十分にうるおす。また、岩や波浪に破壊され磯に打ち寄せられた船材は、家の補修にあてられたり家具づくりにも利用されたりする。


 本文にはこのように書かれている。そして人々は、冬を目前に控え、村をあげて祈願する。
 航行する船が、岩礁に打ち砕かれ、難破するように、と。
 それだけではない。彼らは冬の夜、浜辺で塩を焼く。それは、船の難破を祈願するためではなく、暗い海をさまよう船を、塩焼きの炎に呼び寄せ、座礁させるためにほかならない。
 難破した船に乗っている人が生きていれば、情け容赦なく彼らは殺し、浜辺の洞穴に骸を捨てる。本来それは間違いなく、略奪であり殺人で、悪だと断罪すべきものだと言えるだろう。
 しかし、村人たちにとってその行為は、生き続けるために先祖代々行い続けてきた因習であり、絶対的な社会のルールである。そうやってわれわれは生きていくのだと、子どもたちは教えられる。そこに善も悪もないのかもしれないと、読んでいて考えさせられる。


 「お船様」が到来したとき、村人は船の帆印を確認する。それが商人ではなく藩の船ならば、確実に罰が下るからだ。しきたりとは言っても当然彼らにはそれが、罰せられることだという理解がある。


 物語はそんな村の因習を理解し始め、それに則って一人前の男として生きていこうとする少年、伊作を中心に進んでいく。ここまで述べた設定をふまえ、「お船様」の到来を願う彼らの暮らしが描かれる。


 生きることに必死になる、というのは矛盾を孕む表現だが、読みながら頭に浮かんだのは紛れもないその表現だった。長くて厳しい冬を越すために、人々は蓄え、切り詰め、祈る。病に冒されても決定的な薬はない。なすすべのない状況下で人々に残された選択は、経を唱え、祈る以外にないのだと、突き付けられる。
 そうやって人々のあいだには、神にも似た絶対的な存在が生み出されるのだとわかる。豊かに暮らせる日々を生きているわれわれに、必死に生きるとはどういうことかを問いかけてくる小説だった。


 神と言われてピンとこないということは、異様なことなのかもしれず、それこそニーチェが嘆いた価値の転倒なのだと思った。必死に生きようとした結果もたらされる悲劇を、われわれはどう受け入れて生きるべきなのだろう。絶望に暮れても彼らは変わらず、「お船様」を待ち続けなければ生きていけない。それが真に生きるということなのだとしたら、悪とは何なのだろう。渦巻く問いから目を逸らさずに生きることが、この小説の指し示す唯一の航路なのかもしれない。