【Review】言葉の足跡をたどって

ユルスナールの靴』須賀敦子[著](河出文庫


 一冊の本との出会い、あるいは一人の作家との出会いが、一つの人生すら揺り動かすことになる。人生を変えた一冊という言い方はしばしば耳にするけれど、この本においてその言葉は、決して宣伝文句としてのそれではない。
 ひとりの女性が、ひとりの女性作家へのおもいをつのらせ、彼女の生きた軌跡をじぶんの人生と静かに重ねていく過程が、優しく穏やかな文章で綴られている。エッセイとも自伝的小説とも言える書き方で、嘘のない素直な眼差しで見つめられた記憶は、読んでいて眼前に浮かび上がるようだった。


 内容のみに目を向けるなら、それは筆者が世界各地をめぐった記憶と、彼女が魅せられた女性作家への憧憬にすぎないのだけれど、紀行文と言い切ることなどできもしないほど、そこに書かれている言葉はうつくしい。
 物語の面白さや、独特の視点での物の見方に惹きつけられたことはいままで何度も経験しているけれど、文章そのものにここまで惹きつけられたのは初めてだった。特別な表現がなされているわけでもなく、スリリングなストーリーがあるわけでもないのに、読み終わりたくないような、ずっと浸っていたいような感覚になるのはなぜなのか、未だにそれをうまく言葉にできなくてもどかしい。


 ひとつ言えるのは、彼女の文章のむこう側には、言葉にされていないさまざまなおもいがにじんで見えるということだろう。澄んだ湖面が太陽の光を浴びてきらめくためには、はかり知れない深みがあってこそなのだと思う。
 彼女の文章からうかがえるのは、あくまで静かに凪いで光っている表面でしかない。その深奥で渦巻くおもいは、二十年ほどしか生きていない人間には想像もつかないような気がする。
 苦しみ、悲しみ、憤り、絶望、そういった負の感情の重みをしっかりとじぶんの中に受け入れて生きるしたたかさが、つづられていく言葉に宿っているのがわかる。背負いきれない過去を文章にして吐き出しているのではなく、過去もまたじぶんが歩いてきた道として、彼女はその足跡をゆっくりと振り返っている。過ぎ去ったものをなつかしむような、安らぎに満ちた文章だからこそ、読んでいて気持ちが穏やかなものになっていくのかもしれない。


 ――きっちり足に合った靴さえあれば、じぶんはどこまでも歩いていけるはずだ。そう心のどこかで思いつづけ、完璧な靴に出会わなかった不幸をかこちながら、私はこれまで生きてきたような気がする。


 読み終わったいまになって思えば、この書き出しから、そんな彼女の眼差しはすでに明らかになっていたように思える。じぶんに合う靴をついに履かないまま歩いてきた生涯に対して、嘆き悲しんだ末に辿り着いた場所で、彼女はやさしく微笑んで、それを回想している。


 彼女が歩いた場所と、ユルスナールが生きた場所を考えながら、僕は夏休みに旅したブリュッセルを思い出さずにはいられなかった。ベルギー生まれのフランス人であるマルグリット・ユルスナールブリュッセルは、ほかならぬ彼女が生まれた場所だった。


 ヨーロッパを旅したことですでに、いまのじぶんの靴には少なからず特別な愛着が湧いてきているのだけれど、まだまだもっと遠くまでいけるんじゃないかと、そんな思いに駆られている。


 この作品を読み終えてすぐに、3駅ほど電車に乗って、『地図のない道』(新潮文庫)を買いに行ってしまった。全集がほしかったのに、残念ながら見つからなかった。
 彼女の歩いた道を追って歩ける自信はまだあまりないのだけれど、彼女とユルスナールをつないだのがほかならぬ言葉という道であるかぎり、少しずつでも前に進むことはできるのではないか。
 そんなことを考えながら、引きつづき彼女の残した言葉をたどっている。