書くことは生きること
懸念を上げておく棚を心の中にこしらえたら、意外なほど楽になったことに気付く。
抱え切れないそれらを置いておける場所は、なかったのではなくて作らなかっただけだったように思える。
ただ今までは、その棚を作り上げる技術も体力もなかったと思う。
見つめたくない心の深奥を直視することに対して、少しずつ慣れてきたのかもしれない。
自分より遥かに頑張っている人や、人間として尊敬できる人と話していて、彼らと自分とを比較して落ち込むなどということはなくなってきている気がする。
相手も自分も、徐々に受け入れることができつつあるのだと思う。
一度深くまで沈み込んでしまったからか、浮き上がるときに感じられる負担というのがものすごく軽い。自分でも驚くほど、相手優先で物事を考えられている瞬間が、ときどきある。
速い流れの中で立っていられるだけの自分になってきているなら、それが自信という形を持って現れてくるまで、それほど時間はかからないんじゃないかと思う。
もちろん、まっすぐ立っていられるのは、そこに自分を預けられる支えがあるからなのは言うまでもないけれど。
できることなら、支えなしでも立っていられるくらい強くなりたい。
内面を言葉にする作業を、現在、三種類の方法で同時進行している。
誰にも見せないことを前提に、ありのままをノートに綴る自己分析。
誰かに読んでもらうことを前提に、物語の覆いを被せて紡ぐ小説。
誰かに読まれることを想定したうえで、言葉の選び方に留意して書き出す日記。
ありのままを綴る恥ずかしさというのが、キーを叩く手を通して別の言い回しを選ばせている気がします。
思っているままをストレートに書くことは、日々ボールペンでノートにしたためているので、ここではいかに比喩的で抽象的な言葉を並べて表現できるか試すという、若干息抜き的な要素を含ませることにしています。
そういうわけですので、本日の日記はいつも以上に好き勝手書いています。
ご了承ください。
……これは最初に書くべきだったかも、と思いつつ、あえてそのままにしておきます。