追記

 しんどいけれど、しんどいからこそ吐き出したいことも多い。




 ものを書いて、それを他人に伝える場合、大切なのはそれが正しく厳格な日本語で書かれているかどうかではなく、伝えたい内容、ニュアンスがちゃんと伝わるように書かれているかどうかだと思う。
 表記された言葉の連なりの中に、語義的な矛盾がたとえ含まれようとも、書き手が様々な言葉のうちから感覚的にこれだと思って選んだものを文章にしたほうが、読み手に訴える何かをそこに宿すんじゃないだろうか。
 正しさのみに固執するあまり、伝えたいニュアンスが歪められてしまっては、自由で感性的な表現は完全に損なわれてしまう。語順や時制がばらばらでも何らかの意味を伝えられる柔軟さは、やはり日本語にしかないものなのだから、正しいとか正しくないとかって、二の次に考えられるべきものだと思う。
 優しく温かい雰囲気を伝えたいときに、堅苦しい論文みたいな文体で書いてしまったら、たとえ日本語として完璧でも、読み手には伝えたいことが全然伝わらない。少し不自然な日本語で書かれていても、それが優しく温かい雰囲気を表現しうるものなら、何も問題はないのではないか。


 書き手の感覚を歪められる校正に、ものを書くことの意味を考えさせられ、自信を失いつつある現状。自分のこだわりは曲げたくないけれど、意地を張り続けたら人と人との関係にひびが入りそうで、声を大にして言えない。
 相手の意見を批判しないという条件のもとで研修が行われている以上、言い方に工夫が必要なんですよね。