【小説】最終面接

 白い扉を三回ノックする。どうぞ、と声がして、私はノブを回す。
「失礼します」
 面接官は二人、真っ黒な長テーブル越しに私を見ている。部屋の壁はすべて白く、窓も何もなかった。岡橋郁子と申します。気付けば私は椅子の横に立ち、名前を名乗っている。確かに私は就職活動中だが、なぜ今自分がこの場所にいるのかわからなかった。身体全体の感覚が、妙に軽い。
「どうぞおかけください」
 向かって右側に座っている、眼鏡をかけた面接官が言った。
「では、始めましょうか」今度は向かって左側に座っている白髪混じりの面接官が言う。
 彼らの言葉は、頭の中に直接文字になって響いてくるみたいだった。
「はい」
 私はうなずいてしまっている。たった今、一つ気付いた。この場所に来た過程がまったく思い出せないのだ。
「まず事故PRをお願いします」
 事故PR? そう聞こえた。聞こえたというか、そんな表現が脳内に飛んできた。面接官は別にふざけているわけでもないらしい。まっすぐに私を見つめている。
 事故――何のことだろう、と意味もわからずただ答え方を考えようとしたとき、目の前が一瞬暗くなった。そしてすぐにまた真っ白な空間に戻る。
「はい、あれは昨日の夕方、大雨の中を私は歩いていました」
 私は勝手に話し始めている。もしかしたら夢でも見ているのかもしれない。そう思うことにして、喋る自分の声を聞いた。
会社説明会の帰り、駅に向かって大きな交差点を渡っているときです。信号を無視した大型トラックが、人通りの多いその交差点に走ってきたんです。ヘッドライトが眩しくて目を閉じると、雨の音と、遠くで響く雷と、周りにいた人の悲鳴が混ざって――。そこからはあまりよく覚えていません」
「なるほど。歩行者用の信号は、確かに青でしたか?」
「はい。間違いありません」
「わかりました」眼鏡の面接官が手元でメモを取った。
 何だろう、このやりとりは。自分が語ったはずの事故というものが、まず思い当たらない。やはり記憶がすっぽりと抜け落ちている。
「死亡動機は?」
 白髪混じりの面接官が言った。志望動機ではなかった。幸か不幸か、死にたいなどと、これまでの人生で私はあまり思ったことがない。まったくないわけでもないが、そもそも内定を取る前に死ぬわけにはいかない、と記憶の飛んだ頭で考えた。
「一切ありません」私は答えていた。
「そうですか」表情を変えず、白髪混じりの面接官は言った。機嫌が悪くなったように見えたけれど、特に何も考えていないようにも見えた。
「あなたのエントリーシートには、ずいぶん空欄が多いようですが」
 今度は眼鏡の面接官が言う。そんなものいつ書いたのだろう。
「この、人生でやりきったと思うこと、というのは何もないのでしょうか」
 何かなかっただろうか、と考えかけた私をよそに、口を開いている私がいた。
「まだ何もありません。これから見つけるものだと考えています」
「では、学生時代に達成できたと思うことは?」
 白髪混じりの面接官が顔を上げて訊ねた。先ほどと比べると、普通の質問のように思えた。私は他の面接で話し慣れた内容をそのまま話していた。
「はい、昨年私はアメリカのシカゴに二ヶ月間留学し、国際法について、現地の学生とともに研究を深めました。現地でできた友人とは、今でも連絡を取り合っており、たった二ヶ月ですが、言葉の壁を越えて一生の友人ができたと思っています。このように、異文化の中に身を置く経験を通して、深い信頼関係を現地の学生と築けたことは、私にとって一つの達成ではないかと考えています」
 眼鏡の面接官は話を聞きながら「一生の友人」というところで軽く首を傾げた。白髪混じりの面接官も、どこかさっきより険しい表情を浮かべている。少し間が空いたあと、重々しく彼はうなずき、私を見て言った。
「わかりました。それではこれで面接を終了させていただきます。……最後に、何か思い残すことはありませんか?」
 気のせいかもしれないけれど、さっきから少し背筋が冷たい。
「……ありません」
 そう言ったとき、妙な悪寒が走った。
「はい。では、結果はまた後日連絡いたします」
 私は立ち上がり、失礼します、と頭を下げ、ドアを開けた。部屋の外に出た途端、真っ白な霧に包まれ、辺りには何も見えなくなった。


     *


 目を開けると、私は病室のベッドの上にいた。
「郁子!」
「よかった。ようやく意識が戻ったようですね」
 医師らしき白衣の男性のとなりに、目に涙を浮かべた両親が立っていた。何が夢で、どこが現実か理解できないまま、私は抱きすくめられた。奇跡ですよ、と医師の声がした。


     *


 未だによく思い出せないのだけれど、確かに私は事故に遭ったらしかった。翌日の新聞の一面に載るような事件だったらしく、トラックを運転していた男は私を含め七人をはねたあと、警察に囲まれて逮捕された。被害者として載せられた私の名前の下には、「重体」と書かれていた。
 退院して一週間後、携帯電話が鳴った。非通知と画面に出ている。
「はい」
「あ、岡橋様でいらっしゃいますか」
 どこかで聞き覚えのある声だった。
「はい、そうです」
「まことに申し訳ございませんが、今回ですね、厳正な選考の結果、岡橋様の採用はお見送りさせていただくことになりました。ご希望に添うことができず、非常に遺憾ではございますが、今後の岡橋様の健康を、お祈りしております。それでは、失礼いたします」
「え? あの――」
 電話は切れてしまった。
 どうやら私の就職活動はまだ続くらしい。