吉田篤弘さんばかり読んでいた

 twitter上で、深夜に突発的に文章が書きたくなり、書きつづった吉田篤弘さんの本への所感を、流れていくのがもったいないのでまとめておきたい。ツイートに、少し手直しも加えつつ。


 何か一つのことに打ち込む様子を表す助詞「ばかり」の持つ魅力を、吉田篤弘さんはわかっているのだろうと思う。『それからはスープのことばかり考えて暮らした』『空ばかり見ていた』。それだけを「していられる」贅沢とそれ以外の行為を「せずにいられる」贅沢が満ちるタイトルが、読み手の心を掴む。


 多忙であればあるほど、何か一つのことにゆっくり時間をかけて向き合うことが難しく、いくつかのことを同時に並行して行わなければならないわずらわしさが、世の中には満ちている。思えば本を読むという能動的な行為は、少なくとも読んでいる間はそこに集中していられる、世界と自分を切り離す行為にほかならない。


 物語の側にいられる幸せを、きっと吉田さんは読者以上に理解しているに違いない。本「ばかり」読んでいられることが、どれほど幸福な時間か。そのことと、それ以外のこととに美しい境界線を引く「ばかり」。けれどそこには「だけ」や「のみ」、「しか」という断定的な響きは存在せず、わずかな猶予が見える。


 本ばかり読んでいた、と書くとき、そこには、読書に集中していても、頭の片隅に、ほんの少し、現実とつながり合っているニュアンスがある。完全に物語の世界に行ってしまい、戻ってこられないようになる不安を優しくかき消しているのが、「ばかり」という言葉であろう。いわば、物語の世界に飛び込んでいくための、優しい命綱のような響きがそこにある。前述した「だけ」「のみ」「しか」といった助詞の持つ克明さではなく、夕方と夜の境のように淡いその言葉は、作品に描かれる温もりを帯びるとよりうつくしく感じられる。安心して本ばかり読んでいたい、そう思えるのだった。


 きらびやかな名詞を並び立てて華やかに飾られた文章もいいけれど、あるべき場所に、ふさわしい助詞が、しわのないテーブルクロスのようにきちんと整えられている文章を、個人的にはうつくしい文章だと呼びたい。