死をもって語るその声に、静かに耳を傾けること

 ――あの人たちは何も語らなかっただろうか。あの人たちは本当に何も語らなかっただろうか。あの人たちはたしかに饒舌ではなかった。それはあの人たちの人柄に先ずよっていた。


 佐多稲子 『樹影』(講談社文芸文庫


 引用した書き出しから、まっすぐな問いが飛んでくる。戦後三年目の長崎で始まる物語は、作者自身の故郷への悲劇に、きちんと向き合おうという決意を浮かび上がらせる。


 中心となる人物は、華僑の柳慶子と、画家の麻田晋。物語は柳慶子が、生計を立てるために喫茶店茉莉花」を新しく開店するところから始まる。慶子は麻田にその店の設計を依頼するため、会いに行く。麻田には妻子があったが、それをわかっていながらも慶子は麻田に惹かれ、麻田も慶子の気持ちに応えようとしていく。
 開店して順調な生活が続いていた中で、慶子は肺浸潤を診断され、通院を余儀なくされる。ほどなくして、麻田も同じ病名を宣告される。このような経緯から、気胸療法を受けるため、二人は同じ病院に通うようになり、互いの距離を縮めていく。
 自分の立場を理解しながらも、麻田とともに過ごす時間を心からいとおしく思う慶子と、慶子を優しく支える麻田、その交流を通じて鮮やかな色を帯びていく心情の細やかな描き方は、佐多稲子にしかできないものに思える。日常の何気ない瞬間に揺れる些細な心の動きが、大きな関係性の変化の源泉になっているのだと読み手に伝え、人間の普遍性を描き出していると言っていい。


 長女として、家計を支えようと奮闘する慶子と、画家として花開こうと、作品を描き続ける麻田の、彼らの十数年の生きざまが、ありありとそこに書かれている。彼らを脅かす原爆の後遺症が、のちに待っている結末の悲しさを想像させる。
 彼らの死をもって、小説は幕を閉じる。そのこと自体を明かしても、何ら差し支えのないほどすさまじい作品だと言えよう。ひたむきに生きる彼らに、ひとを想い、自分の生き方をまっとうしようとする姿勢の尊さを教えられる。


 あらすじのみでは悲劇的な恋愛小説に見えるが、決してそんな陳腐なものにとどまらない。原爆が投下され、そこからなお続いていく日々を、人生を、まっとうした人々の姿が切り取られた、一つの歴史がそこに刻まれている。
 主人公は慶子だが、小説は三人称で語られる。愛し合うふたりの思いや言動を、静かに見つめる語り手の目が、悲劇から目を逸らすことのない、したたかな作者の目となって、読者に寄り添う。
 その切実なまなざしは、凄惨な事実から目を背けることなく、問われ続けなければいけない是非を、熱を持って投げかける。決して饒舌には語らない当事者の思いを、その生きざまを描くことで語った作者の切なる声に、私たちは耳を傾けなければならない。


 美談などではない。芸術作品でもない。生み出された虚構のなかに宿る真実が、決して忘れてはならないと物語る。こういう小説のことをこそ、文学と呼ぶのだと思い知らされる。
 一人でも多くのひとに、読んでほしいと思った一冊だった。