五感を潤す言葉

 さて、おにぎりの話に続いて、食に関わる言葉の話を書いてみる。
 日本文学の講義で、よしもとばななの『キッチン』を扱うものがあったので、高校1年のとき読んで以来だったものを通学中に再読した。


 ――でも人生は本当にいっぺん絶望しないと、そこで本当に捨てらんないのは自分のどこなのかをわかんないと、本当に楽しいことがなにかわかんないうちに大っきくなっちゃうと思うの。


 最後の家族だった祖母を亡くした主人公のみかげに対して、住まわせてもらっている友人、田辺雄一の母であるえり子が言った言葉に、思わず目をとめてしまった。母、といってもえり子はかつて父であり、本当は雄司という名前である、といった事情があるのだけれど、そういった物語とは関係なく、今現在の自分にとって否応なく響いてしまう言葉だった。
 なぜか。理由はすぐに見つかる。第一志望に落ちて5日も経つのに、いまだ次の一歩を踏み出す気力が湧かない自分の胸の内を射抜かれたような気がしたからである。絶望しているなどとは考えていなかったけれど、望みを絶たれたのだから絶望だと言えないわけでもないのか、と思った。
 確かに、「本当に捨てらんない」ものだけが自分の中に残っていて、それにしがみつくようにして今、生きているのかもしれない。


 と、本筋に関係のない話はここで一度やめて、改めて感想を文字にしてみる。
 きわめて日常的な言葉で書かれ、漫画のような擬音語が随所に見られるこの作品が当時いかに斬新であったかという話は講義で聴いた。ただ、少し別のところが気になった。
『キッチン』以外の作品でもそうだと思うのだけれど、よしもとばななの小説には、「かなしい」だったり「心」だったりという言葉が多用されている。あまりに直接的な表現なので、普段ものを書いていても使うのにためらってしまう言葉が堂々と用いられており、けれどその文章に読み手は惹きつけられる。なぜなんだろうといろいろ考えて思うのは、その広義で直接的な言葉が、きっちり的確に使われているからではないか、ということである。
 簡単に真似できそうで、しかし到底できるものではない。単純な語彙しか持ち合わせてないゆえに書いてしまったのと、豊富な語彙を持ちながらあえてシンプルな言葉を選んだのとでは決定的に重みが違うからである。


 そして。キッチンからの安直な連想で友人との会話にも挙がった本が、帰りに立ち寄った書店に偶然置いてあったので買ってしまった。


 幸田文[著] 『台所のおと』(講談社文庫)


 どういうわけか、友人との間で幸田文ブームなるものが起き始めている。幸田文の本は以前東京の古本屋で『崩れ』(講談社文庫)を買っただけだったのだが、内容を冷静に吟味して、もしかしてこれは非常に暇なことをしているんじゃないかと失礼なことを考えてしまったのである。
 先に『崩れ』のことを書くと、これは作者が日本各地の山崩れが起きた地形を直接訪れて思ったことをしみじみ書いた本である。200ページほどの分量、そのほぼすべてが山崩れ関係のことである。山道を嬉々として歩いた当時の作者が72歳というのも驚きではあるが、それだけの量を山崩れについて思ったこともろもろで埋めてしまうのはなんとも言えない気持ちにならざるをえない。
 ゆるいなあ。そんな言葉が口をついて出る。


 で、『台所のおと』である。
 作品集であり、表題作が短いため、それだけ読み終えた。随筆である『崩れ』とは違った魅力をたたえた、非常に秀逸な作品だと思った。
 病床に伏せる佐吉は、妻のあきが料理をしている音を、障子一枚隔てたところで聴いている。そこに立つひとによって生み出される音はまるで違う。彼の記憶の中で、台所から聴こえてきた音は、彼と関係を持ったひとたちの印象とともに刻まれている。


 よしもとばななの『キッチン』において、みかげは冷蔵庫のぶーんという音にやすらぎを見い出す。孤独から彼女を守る台所の音がある。


 誰かとの関係性の記憶が、台所という場所から甦り、彼らの生を形作るひとかけらになっていく。視覚としてのイメージではなく、聴覚からつくられた記憶がイメージになって読み手の脳裏に浮かぶ。
 言葉によって、五感がみるみる潤っていくような、そんな気がした。