ただ名前だけがなく
氏名、と書かれたそのとなりに空欄があったらまず自分の名前を書くというのが当然だが、ペンを握っていざ書こうと思ったそのとき、ふと自分の名前が頭の中から抜け落ちていて、自分が一体何なのかわからなくなる瞬間が、もしあったとしたら。
記憶を辿ろうにも思い出せず、それまで経験してきたはずの過去から現在の自分が完全に寸断され、今ここに、ただいるだけ。確かに存在はしているけれど、その寄る辺なさに現前している事実さえ揺らぎそうになる。
そんな、普遍論争で問題にされたような事柄について考えてしまう小説を読み終えた。
多和田葉子[著] 『海に落とした名前』(新潮社)
4つの短編からなるこの本のなかで、表題作についてだけここでは述べる。というのも、それ以外の3つにほぼ言及ができないからである。難解、という言葉では不適切な気がするのは、難解だからよくわからないのか、そもそも単によくわからないものとして書かれただけなのか、未だに判然としないからだったりする。
しかし、表題作は遥かに読みやすく書かれているため、ほかの3つの作品はどう考えてもよくわからないように書いてあるのだと思う。
というわけで、表題作「海に落とした名前」。冒頭で語り手の「わたし」は飛行機の事故に巻き込まれ、海上に不時着し、命を取り留める。病院で自分の名前を書くように言われたとき、何も思い出せないことに気付く。持っていたのはアメリカ各地で買い物をしたときのレシートの束のみ。そこから何かを思い出そうとするけれど、買い物の履歴は当然のごとく商品と時間しか示さず、つねにそこには主語の欠落があることに「わたし」は落胆する。
素性のはっきりとしない兄妹が、「わたし」の過去を探ろうとしたり、過去は消し去って新しく生き直そうと提案したりする。
誤解を招かないために書くけれど、この小説には、よくある感じの記憶喪失からの再生を通して築かれる人間関係の温もりなんてこれっぽっちも書かれていない。
名前と過去から完全に切り離された、一つの存在者としての人間のありようが、問題提起的に書かれている。他者によって新たな名前を与えられたり、過去の自分とはまったく関係のない形で性格を規定されたり。自分で自分の存在を規定することができず、厄介な他者にそれをゆだねるしかないのではないか。そんな疑念もよぎる。
けれど、名もなき「わたし」は記憶の戻らないままレシートのみを頼りに自ら言葉を発し続けることで、寄る辺のない自身の存在を確固たるものにしようと試みる。
他者に向かって自分の言葉を放つことが、関係性を生み、自己の立ちうる舞台をつくる。それを救いと呼べるかどうかすらわからないけれど、物語はそこで終末を迎える。
正直に言って、読解には自信があまり持てないのだけれど、おおむねは以上のようなことだと思う。設定がシンプルでありながら、物語の進行は少しもシンプルではなく、むしろ歪んでいる。「わたし」は「わたし」でしかないけれど、その今現在の「わたし」は何なのか。名前、言葉というものによって受ける支配力の計り知れなさを思った。
この「海に落とした名前」は初出では「レシート」というタイトルだったらしく、正直そっちのほうがしっくりくる気がする。ただ、単行本のタイトルを飾る言葉として、やっぱり「レシート」ではどうしてもインパクトに欠けるのか、改題を余儀なくされたのだろうなと考えてしまった。
読者の心をつかむ第一声が背表紙から発せられる以上、本の名前というのもずいぶんと重要な存在規定の一つなのだなとしみじみ思ったしだいである。