思考の縮図を書評にかえて

「それで、お金のことはなんとかなったんだね?」
 カラスと呼ばれる少年がもしそんなふうに訊いてきたら、村上春樹の描く田村カフカくん同様、「とりあえずは」とこたえるだろう。ただ、僕はとても彼のように「世界でいちばんタフな」21歳にはなれそうもなかった。京都駅のホームから、今年の恵方とは真逆へ向かう新幹線に乗り込むまで、ひたすら不安だった。
 不安を和らげるために流す聴き慣れた音楽とともに、座席に着くなり僕は一冊の文庫本を開く。


須賀敦子全集 第1巻』(河出文庫


 昨年12月に買ってから、少しずつ読み進めてきたこの本を、ようやく読み終えた。帰ってきた今になって思えば、往路でこれをじっくり読んでいたせいで、いろいろと考えてしまったのかもしれない。彼女の語るイタリアでの出来事が、昨年のヨーロッパ旅行を思い起こさせ、僕は新幹線の車窓から外を眺めながら、欧州諸都市を結ぶタリスの赤い車体を思い出していた。
 いくつかトンネルを抜けたあと、目に映る光景に息を呑む。滋賀県の北部、山々が、田畑が、一面雪に覆われていた。真っ白な雪景色を見たのは何年ぶりだろうと記憶をたどる。さすがに午前10時過ぎだったため、川端康成の『雪国』そのままではなかったけれど、もし夜の帳が下りていたときこの光景を見ていたら、大好きな2文目「夜の底が白くなった」を実感せずにはいられなかっただろうと思う。


 そんなふうに、ものすごくたくさんのことを考えた一日だった。何せ往復で7時間である。説明会に行くのが目的とはいえ、それほどの時間をじっくり読書と考えごとのみに充てられるというのは、日頃滅多にない。
 そして、初めて行く土地、初めて見る風景、初めて感じる空気は、慣れきった日常で鈍った感性を一瞬にして鋭敏なものにする。ただ、その一方で、初めて目の当たりにするものが、思ってもみなかった過去を呼び覚ますから不思議である。


 東京に来るのは12歳のとき以来だったけれど、印象は全然違っていた。当然と言えば当然だが、ベルリン、ブリュッセルアムステルダムといった各首都とは比較にならないほどの人混みである。立っているだけでその人口密度の多さに押し潰されそうになる。
 さも珍しげにこんなことを堂々とつづると、東京で暮らす人から訝しげな目で見られそうだけれど、正直なところ、あの環境が日常化しているのが怖かった。否定するつもりはまったくないものの、東京に住む人々の考え方が、日本のスタンダードだとはとても思いたくない気持ちになる。
 車内が少し広い山手線に乗って、関西圏の人間の先入観と、関東に慣れた人間の意識との格差におののいてしまったしだいである。距離的な壁は越えたとはいっても、精神的な壁はまだまだ分厚い。でもきっと住めば都なのは文字通り間違いない気はする。


 そんなこんなで説明会の会場まで無事に辿り着き、周りの学生の標準語に耳を傾けつつ開始を待った。これまた厄介な先入観と情けないほどの不安から、周りの人と会話したいと思えなかった。
 けれど、わざわざ東京まで受けに行こうと思っただけあって、説明会の内容は想像以上だった。志望度が一気に上がる。ここ最近、どうも志望順位の入れ替わりが激しい。
 そんなことを思いながらしっかりメモを取りつつ説明会を聴き終えたあと、長時間割かれた質疑応答にて、早慶の学生の多さに思わずたじろぐ。その数もさることながら、質問する言葉遣いは淀みなく、格差を感じずにはいられなかった。
 次の採用ステップは鬼門のテストセンター。楽して大学へ進学してしまったせいで、残念なことに「ぼくは勉強ができない」ので、不安は募るばかりである。専攻する「学問」と一般常識の乖離が面倒極まりない。
 死なない程度に死ぬ気で頑張ってみようかなと思った。


 説明会終了後、せっかく来たのだからそのまま帰るわけもなく、高いビルを見上げながら書店巡りへ。いつ読むのやら文庫本を3冊も購入してしまう。思わぬ掘り出しものもあって軽く感動する。
 しかし。ふらっと立ち寄った書店に『哲学の歴史』(中央公論新社)がほぼ完璧に並んでいたのには唖然とした。しかもなぜか中世の3巻だけがないという謎。売れてしまったのか売れないから並べていないのか。首都における哲学の需要がわからなくなる。


 そういうわけで、書店巡りに結構な時間を使ったため切り上げて帰路につく。余裕でまた来られるなと思って一日を振り返ると、ふと『須賀敦子全集1巻』の一節が思い浮かんだ。


「孤独が、かつて私たちを恐れさせたような荒野ではないことを知ったように思う」


 彼女が書いた意図とはまったく無関係にこの言葉を今日感じた思いに重ねるなら、孤独とは自分以外誰もいない物理的な空間において感じるものではないのではないかと思う。
 人が溢れ返るなかで、その場になじめず立ち竦む状況において、より孤独は際立つように思えた。須賀敦子が、夫の死について詳しい描写を避けたことで、避けられたその瞬間の重みがより明白に浮かび上がるように、人混みの中でこそ、かえって孤独ははっきりと浮かび上がる。


 気のせいなのかどうかわからないけれど、京都から奈良へ帰る電車の中で飲んだ温かいエスプレッソの味は思いのほか優しかった。


 とにかくこれで、今後のために確実に一歩「フミダス」ことになったんじゃないかと思う。