Replicate

 楽しみにしていたことがしばらく実現しそうにないので、少し気分を変えようと、学校帰りに一人で河原町を歩く。某大型書店の画集・写真コーナーに入り浸って美術館に行った気になったり、好きな作家の単行本に目新しいものがあって驚いたりする。


 今日はちょっと(大体いつもですが)、好きなことを適当に書きます。


 小説を読まなくても、絵画を観なくても生きてはいけるけれど、忙しいときほどそれらに触れる時間は重要な気がしてならない。さすがに小説をじっくり読む時間は取れないので、最近よく風景を切り取った写真を眺めてぼんやり考えることが多い。


 一枚の紙の上。見たこともない空の色や、海のきらめき。視界を遮る建造物が一つもない草原は、太陽の光を受けて地平線の遥か向こうまで広がる。
 ただ言葉で説明するだけでは大きな意味もなさないほど、切り取られた自然の一瞬は、観る者をその世界に引き込む。実際、思わず言葉を失う。言葉にしがたいものを言葉にすることに普段は意地になるのに、ときどきその意味のなさを実感したりもする。
 けれど、写真が芸術作品かどうかを考えてみると、すんなりと首を縦には振れない。写真は絵画とは異なり、複製が容易であるからである。一枚の写真にどこまでオリジナリティや唯一性といったものが認められうるのか。それはオリジナルなものであれば芸術作品と言えるのかという別の問題も提起してしまうことになる。
 その点は一度置いておくにしても、写真が果たして芸術作品かどうか、断言はできないけれど、少し考えを書いてみることにしたい。


 絵画に立ち戻って今一度考えるならば、それを観たときにわれわれが感じるのは、その作品が一人の人間によって描かれたものであるという驚き、すなわち、創られたものであるということへの驚きである。例えば、ゴッホの油絵の実物を観たときにわかる、ごつごつとした絵の具の盛り上がり、筆の跡。それは確かに、作品と作者の間に明確なつながりがあることの証と言えるかもしれない。


 ところが写真の場合、作品と作者(芸術作品と芸術家)の間には、絵画ほど密接なつながりが観て取れないばかりか、断絶すら感じられる。写真家と呼ばれる人々が世の中には大勢いるのだから、写真を撮ることに関して技術的な能力や感性が必要だということは周知のことだけれど、既述したように、複製できるという点において写真の唯一性はない。もっと極端なことを言えば、自然を切り取った写真を観るよりも、実際にその場所に行くことで得る感動のほうが遥かに勝るはずである。
 そして、写真を見たときわれわれが感じるのは、(写真を普段あまり撮らない人が観るなら余計に)その自然の美しさであって、写真家のテクニックではない。われわれは写真を評価する以上に、写し取られた自然を評価する。
 このとき、写真という一枚の作品は、作者である写真家のもとを離れていく。作品と作者の間に亀裂が入る。
 芸術的という言葉は簡単に使ってしまえるけれど、何が芸術か、あるいは芸術とは何なのかと問うとき、その線引きが非常に困難であることを私たちは知る。


 と、これまで述べてきたことは偏った視点からのものであるうえ、写真については風景の写真しか対象としていないということもあって大いに問題があるとは思うんですが、これに関わってレポートを書かなければならなかったりするので、ちょっと大雑把にまとめてみました。
 こういうことを書くには例えばベンヤミンを読まなければならなかったりするだろうし、現段階でちゃんと形にできるなんて到底思えません。というか、卒論でも扱いきれないほど大きい問題だと思ってます。
 絵画も写真も好きであるうえ、芸術的なものを生み出す側に立ちたいと考えているからこそ、真剣に考えざるをえません。
 ばかばかしいと思って通り過ぎることもできてしまうような問いではありますが、ちょっと考えてみれば、誰でも陥りうる答えのない問いであり、それに無頓着に生きていられるほうがだんだん信じられなくなってきたりもするのです(笑)


 そういうわけで、どことなくイデオロギー的な日記に仕上げてみました。