【掌編】地下鉄

 地下鉄の窓からは、真っ暗な壁面に規則正しく並ぶ白い電灯と、ガラスに映る自分を含めた乗客の姿しか見えない。行き止まりから行き止まりまでを往復する車両が、トンネルを抜けて白い夜の底にたどり着くことはなく、すでに地の底に延びているレールの上を、ただ精確に、律義に走り続ける。郊外から都市へ刻まれた網目には一本ずつ色が塗られ、住民はそのいくつかに自分の生活を組み込んで暮らしている。
 始業が少し遅い私の頭の中には、9:13が刻印されていて、仕事があってもなくても朝でも夜でも、九時を回った長針を見ると、反射的にまだ間に合うかそうでないかを考えてしまう。そういう生活を繰り返してそろそろ三年と一か月が経つ。幸いにして異動することも人間関係に軋轢が生まれることもなく、圧力をかけられることも嫌がらせを受けることもなく生きてこられていて、それはもしかしたらすごく珍しいことなのかもしれないと最近思うようになった。
 それを幸せなことだと言われて否定するつもりはないけれど、幸せの形も色も多様になっていく世界の中で、私はまだそれらしいものを見出せていないような気もして、ときどき不安になる。おいしいものを食べたり、楽しい映画を見たり、面白い本を読んだりすることが欠けているわけではない。ただ、そのどれもが月曜日の朝から次の日曜日の夜までの時間の中にすでに組み込まれていて、つつがなく日々を生きていく自分を保つための、歯車や潤滑油のようなものとして自分の一部と化してしまっている。私は、私の外側に出られない。
 地上ではたぶん、桜が散っている頃だと思う。
 一つの行き止まりから、もう一つの行き止まりの間で私は今日も揺られる。季節感のない空間の中で、風に揺れている桜の枝をなんとなく想像する。無表情な私と目が合う。疲れてはいない。何もかもいつもと違わない。私は私を見ている。まばたきをする。瞼が上下に動く。あれ、と思う。
 まばたきをした自分の姿が、途切れることなく見えたような気がした。私は、私に見られているのだろうか。車内に次の駅名を告げるアナウンスが流れる。ブレーキがかかる。ゆっくりと目を閉じて、もう一度開いた。コンタクトレンズが少しずれたのか、目の前がにじんだ。
 窓の向こうにいた私は消え去り、まぶしい駅のホームが現れた。

新しい季節を思うこと

 ずいぶん早く咲き始めて散っていった桜を回想しながら、梅雨明けを待っている。夏の足音が聞こえてくるのも心なしか早く、こうして時が経つ早さを身に染みて感じられるのは、30歳を迎えてしまったせいなのかもしれないと思い、少し複雑な気持ちになる。
 とはいえ、こうして節目を迎える年に、無事に異動できたことはうれしく、4月からこれまで、何度心の中で順調という言葉を繰り返したかわからない。
 考えてみれば、二十代後半の5年間はずっと前の部署にいたわけで、よくもまあそんなに長く続けられたものだと今では思う。過去を否定するつもりはないし、過去の自分が現在の順調さを築いてくれているのは間違いないけれど、あのころあれだけ頑張れたのだから、という論法は使わずにいたい。平穏な現在が浮き彫りにしたのは、限界を超えて確かに無理をしていたという事実で、それをこれからの自分にも、関わり合う誰かにも決して強いたくはない。のしかかる負担は必ずしもひとを強くするのではなく、圧迫された心は優しさを持つゆとりを生まない。
 新しく勤めている場所までは自宅から約1時間かかるけれど、多少面倒な乗り換えにはもう慣れた。呼吸のしやすい場所が線路の先にあることをよろこびながら、大半は読書にいそしんでいる。読書をする心の余裕が戻ってきている。


 環境が変わったせいなのか、30歳を迎えたせいなのか、長く使ったものを買い替えたいと思うことが増えている。6年間かけていた眼鏡を先日買い替えたことをきっかけに、働き始めてから一度も買い替えたことがないもののことをたびたび考えるようになった。
 テレビ、電子レンジ、洗濯機、掃除機、シェーバー、財布、パスケース、腕時計――など、別に壊れていないのだから買い替える必要もないのだが、ふと何かに飽きたような気持ちになる瞬間があり、最新のもののスペックや値段を突然調べたりしている。眼鏡を替えたせいで、それまで見えなかった何かが見えてしまっているのかもしれない。あるいは、忙しくて周りを眺める余裕がなかっただけだとも考えられる。ただ、その思いは徐々に加速し、家にあるものだけでなく、自宅についてさえ、そろそろ引っ越してもよいのではないかと考えることもあり、新しさを求める何かに突き動かされている気がして少し戸惑う。


 ずっと前に、ひとは筆箱をいつ買い替えるのだろう、と思ったことがある(筆箱のことはここでも過去に書いた)。壊れることがなければ使い続けるのに支障はないものを、ひとは何をきっかけに、どういう理由で買い替えるのか、ときどきすごく気になることがある。たとえばそれを誰かに訊ねたとして、「特に理由はないけど、なんとなく」という答えが返ってきても、その「なんとなく」の向こうにある潜在的な何かを知りたくなるし、見極めたいと思ってしまう。そこには、言語化以前の何か本質的なそのひとらしさがあるように思えて面白く、できるならそれを言葉にしてみたいとすら考える。無意識で、どうにもできない部分には、そのひとの人間的な部分が垣間見える。わけもなく、ああ、このひとも人間なんだと思ったりする。その安心感が心地よく、精神的な距離感を縮めるきっかけになることがある。完璧な人間は存在せず、不完全さこそそのひとの本質で、どうにもならないその部分に、そのひとがどう向き合ってきたかを知ることが、心の共有なのかもしれない。
 そんなことを考えているにもかかわらず、なるべく自分はひとに隙を見せたくないと思っていて、たやすく矛盾が表面化する。大切にしたい過去を握りしめていても、新しいものが欲しくなる瞬間はやってくる。


 今年の夏が暑くても暑くなくても、新しい季節には写真を撮りにいきたい。ただ、カメラやレンズを買い替えたい思いが首をもたげても、それについてはなるべく考えないようにしようと思っている。精神的な充実が、経済的な破綻を招いてはいけない、と戒めを込めてここに綴っておく。

何かをつきつめること

 異動が決まって、気忙しく日々を過ごしている。4年過ごした部署、特に2015年からの3年間は、楽しかったこと以上に、きつかった記憶ばかりが思い出される。20代も残りわずかとなり、ここにきてようやく、背負い続けてきた重荷を下ろせることに安堵している。
 新しい部署で、一から学ぶことは多いものの、呼吸のしやすさは全然違っていて、何かにむけて心血を注ぐことが、目指す結果に向けて取り組む過程そのものが、楽しめる場所にいるような気がしている。前の部署でもそういう部分はあったけれど、何もかもが忙しすぎて、身体全体に力を入れ続けていなければ崩れてしまうほどの緊張感を抱えたまま走り続けていたので、気持ちの余裕はほとんどなかった。


 何もかもができる人間は存在しない。完璧とは、目指すことはできても実現することはできない概念だと思う。
 昔から、スペシャリスト、専門家、職人というような、一つのことを突き詰めた人間への憧れがある。できないことは誰しもあるのだから、できることをとことん伸ばし続けたいし、そんなふうにして成功しているひとは素直に尊敬できる。自分もそうありたいと思う。
 ただ、生き方に対するそのスタンスに、異を唱えられることがたびたびあって、しんどかった。できないものをできるようにする努力や、できなかったことができるようになる喜びに、スペシャリストになる以上の価値を置く人間もいる。できないものをできないと、潔くあきらめることを、よしとしない人間がいる。心の底から、息苦しかった。


 並外れた人間になろうと思ったら、並大抵ではない時間を注ぐ必要があるはずで、できないことへの克服に時間を使うより、できることを中途半端にせず、とことん伸ばし続ける生き方を選びたい。どう生きても、どうあがいても、何者にもなれないかもしれないけれど、30歳を目前にしながらも、どうにかして、自分にしかできないこと、特別な何かを成したい思いがあるのだと思う。ひとまず今、そこに打ち込める環境に自分が身を置ける喜びをかみしめながら、一歩ずつ進んでいきたい。

書くことへの回帰

 2か月間更新を怠ったせいで、体調が悪そうなままの記事で終わっていたことを反省している。一つひとつを振り返れば何時間でも書けそうな気がするけれど、ひとまず直近のことを綴りたい。


 年末から2週間近く風邪を引いていて、ようやくほぼ治った。喉の激痛、咳に悩まされていた。熱が上がらない分、妙に長引いた。病院で血液検査や胸部レントゲンを行い調べてもらったがふつうの風邪で、年始はずっと安静にしていたのに「こじらせている」と言われて腑に落ちなかった。


 久しくブログを書こうと思えたのは、何より書く環境が整ったからというのが最大の理由で、悩み抜いた挙句にノートPCを購入したのだった。VAIOのS11、シルバー。860gの軽さ。キーの静けさ、デザインと、価格以外は申し分ない。カメラ、ウォークマンスマホとともに、ついにこちらもSONYさんのお世話になる。
 購入にはずいぶんためらっていた。確か5年前に購入した初代Surfaceが、一応まだ健在だったからである。正直、重さはVAIOとそこまで変わらないし、タイプカバーも悪くないのだけれど、タッチパネルは使わないのでタイプカバーを分離させる必要はなく、なによりタブレットとしての使用目的のために背面がスタンドになっているのが煩わしかった。テーブルに多少の奥行がないと置けないうえ、角度の調節もできないことは、細かいことではあるが非常にストレスだった(と買い換えてなお思う)。
 また、VAIOのキーがSurfaceより小さく、店頭で打ってみると少し打ちにくさがあり、正直どうなのかと思ったところがあったのだが、購入して実際にテーブル上で使ってみると、何の問題もなく、むしろとてつもなく快適だった。タイプカバーとは違い、きちんと剛性があり、キーを叩いている安心感がある。大きさにはすぐに慣れた。


 持っていこう、と思えるデザインであること、文字を打ちたいと思える手ごたえであることは、本当に大切だと思う。今年は何とか、昨年よりも書くことに向き合っていたい。本の感想を綴りたいし、書きかけの小説を意地でも完成させたい。


 また、写真も撮り続けたいと思う。2017年は、執筆より撮影の一年だった。美しい景色を、大事にしたいと思えるものを、20代最後の一年を、きちんと残しておけたのではないかと思っている。


 楽しく、穏やかに日々を生きていきたい。そればかりを思う。

崩れた体調の隙間から

 2日間睡眠を充分にとったにもかかわらず、身体のだるさと頭の重さが抜けなくて病院に行ったら、夏風邪と脱水症状と診断された。暑い時期に風邪を引いた記憶がほとんどなくて、記憶にないということはその経験は初めてのようなもので、春先や冬場に引く風邪とは違うその症状に得体の知れなさを覚えていたのが、診断結果の名前がついて少しほっとした。
 薬を飲んで出勤して、一応時間通り働いて、残業はせずに職場を出て帰って、考えるのはずっと、文章を書くということについてだった。書かないこと、書こうとしないことを、自分自身がよしとしていない。何かに急き立てられるようにして、書くことがあるわけでもないのにこれを書いている。


 自分の中にある、このエネルギーは何なのか、いまだにわからない。かつては、人恋しさやさみしさ、会話の足りなさ、そして、自分のことを誰かにわかってほしいという気持ちだったような気がする。ただ、思ったことを話したり、考えたことを共有できる相手ができても、書かない時間が増えると妙な焦りになって、書くことへの渇きのような、あるいは飢えのような思いが湧き出してくる。
 湧き出したそれを、物語の形にするか、形のないままこうして流すかは、手元にある時間が決めるのだろうけれど、虚構を編み上げたい気持ちがずいぶん大きいのだと思う。


 考えたい、知りたい、書きたい。苦しいから、つらいからという思いより先立つそれらの欲求を叶えるために、何をどのように書きたいのか、なぜ書きたいのか、もう少し突き詰めたい。
 妙に時間ができるとすぐにこういうことを考え始めることが、何か特別なものを生み出すきっかけになるはずだと、わずかながら信じている。たぶんそれは、揺るがない。

撮ることは

 書くことが生きることなら、撮ることはどうすることになるのだろうと考えていた。目に映るものを、手元にある愛機は鮮やかに写しとってくれる。収めたいと思う景色は、ただそれが自分の感性にとって美しいと思える程度の直感であることのほうが多いけれど、撮ることに惹かれ、撮ることについて考え、深い理解を求めてしまうのはどうしてなのだろう。


 キットレンズで撮影を続けて、広角が欲しくなった。広角で撮り始めてから、超広角に憧れた。超広角と広角を使い分けることを覚えて、目に映る景色すべてではなく、自分がその中で特に目に留まったものを写しとりたくなった。気のせいかもしれないけれど、カメラによって物語を喚起させうる場所まで、もう少しでたどり着けるような気がしている。
 何かを撮るとき、まだそれを撮ることだけで十分に悦びを感じられてしまうので、撮った写真が何かを呼び起こしうるかという視点には至っていない。読むひとの見る世界を文章が変えうるように、見るひとの眺める世界を写真が変えうる。写真はあくまで趣味だとは思っているけれど、撮ることで何かを思い、考えることを通して、そこから誰かに何かが伝えられるきっかけになったら、それはそれで素敵なことかもしれないと思う。
 ここまで書いて、カメラを手にしているとき、とりたてて意識していなかったわりに、撮ることは考えることなのではないかという気がしてきた。ファインダーを通して、目の前の風景を見る。光との対話をまとめるようにシャッターを切る。保存された写真は、その風景に対して何かを考えた跡なのかもしれない。


 当然ながら、書くことをおろそかにはしたくない。あくまで写しとりたいのは、自らの言葉によってのみたどり着ける場所の景色であり、その追究のために文章を書き続けていたいと思っている。何かを見て、考えたことは、写真ではなく言葉による作品として結実させたい。


 カメラはたぶん、考える道具の一つなのだと思う。やっぱりレンズがほしい、という結論になってしまうのだけれど、これはもう仕方がない。